第99回
(話題)  近世都市空間の創出過程について−都市構築の基盤材調達の視点から−
(話題要旨)
今回の話題は“江戸城石垣(外濠)”に限定し、表題の大テーマに迫るための第一歩としたい。当時の江戸城の外郭には既に非農村的状況ができており、狭くなった武家地を広げ(実際には大名も外堀外へ出されている)、外郭を外濠で囲むという都市空間の創出を狙ったものであるが、それらの解明は都市史と城郭史を交差させながら考察することを要しよう。
寛永13年(1636・将軍家光)の外堀普請は、鍛冶橋から溜池落口および赤坂門までの新規枡形・石垣を構築する「石垣方」西国大名と、牛込〜赤坂喰違土橋間の掘削を担当する「堀方」東国大名とに分かれ、総数112家の手伝普請によって行われた。寛永13年正月8日が石垣方、3月1日が堀方の鍬始めであるが、終了は同年夏頃で、門・桝形を含め城郭として完成したのは翌年(1637)であった。石垣方普請組は前田肥前守(金沢藩・1,192,760石、石垣坪4,738坪)をはじめ石高に応じて施工し橋・見付の枡形(ますがた)も受け持った。掘方は伊達中納言(仙台藩・620,000石、土坪24,446坪)ほか石高に応じて掘削だけを担当したが、総土量など詳しくはわかっていない。
この普請の石材・木材はすべて手伝大名の負担とされた。石垣石の調達は寛永11年12月ころ、石材産地である伊豆石丁場に各藩の石切人足が300人・400人と集結し、採取した石は翌12年春〜夏に江戸の幕府指定の石上場に運搬され積み置かれた。この間、同年4月には手伝大名の石垣普請丁場割がなされており、見栄えのよくかつ有利な場所を施工したい意図から大名たち(蜂須賀家は鍛冶橋狙いなど)の様々な情報合戦があった。
細川越中守(熊本・541,169石)「伊豆石場之覚」には半島74カ所の採石地名、石質、港との関係などが記載されており、有利な石場の争奪戦は相当早くから伊豆の山で展開されていたと推察される。上記の伊豆の石丁場は慶長11〜12(1606〜7)年の江戸城増築・修築工事の際には既に存在していたが、その後、十分な管理もされず20年以上の歳月を経て樹木が生い茂り入会場となったりして使えなくなっていた。発掘調査により石垣方の普請丁場に「組」が出来たのは慶長・元和時代、石丁場には寛永13(1636)年になって「石丁場組」(例・細川越中守組石場)が構成されていることが判明した。
また、寛永6年の工事では西国大名の任は石の採掘・進上に限られ、構築は譜代大名に命じられたが、これには譜代大名を疎外化し大名として平準化させる意味合いもあった。寛永13年の手伝普請は採石から構築を含み、5万石以下の出丁場をもてない大名は大大名の下に入って採石に従事しており、苛酷な労働の面だけでなく、技能や仕組み・組織の面からも究明を必要としよう。さらに、一つの石丁場が色々な人(大名や商人)に利用されていること、刻印の読み取り方(切り出した人による刻印)など注目すべき点が多い。手伝普請の形で施工するのは寛永13年を最後とし、以降繰り返される修築は手伝普請で切り出した石のストックを用いて元の形に積んでいる。従って大阪城のように刻印と丁場割とは必ずしも一致しているとは限らないのである。
幕府が都市の基盤材としてストックした石(進上預かり石)は莫大な量にのぼった。「相州足柄下郡岩村九ケ所御石丁場預かり帳」(真鶴町史)だけでも明暦3年時の進上預かり石は4297本(各種の石総計)に及んでいる。幕府はこれらストックの石材を使いあるいは在来石を生かして、明暦大火(3年・1657)、元禄16(1703)年大地震、安政の大地震(2年・1855)の修復などを実施するわけである。そして、大量の需要は明暦で終り、万治年間(1658〜60)に多少流動するものの石丁場に活況が戻るのは幕末・黒船到来による台場建設などを待たねばならず、それに伴い石丁場は商人丁場になっていったのである。
石工・石積大工については滋賀県本流の穴太(穴太積・穴生衆)が著名であり、安土城で突然出現し名古屋城・駿府城の石垣造営に活躍するが、中近世の山城でも石積の構築が存在するところから、石積を経験した者の中から次第に石工が形成されていき、つまり技術的な受け皿があって穴太積が敷衍していったものであろう。ただ作事方ほど明確でないが、関方石方棟梁の青木家(石屋善左衛門)が寛永7年に石方扶持人(二人扶持)として幕府に被官してことは注目に値し、石工も穴太のみでなく考えねばならぬと思われる。
穴太(寛永13年・100石)による技術統一と穴太の役割・出自(賤民)と技術継承、作事方の石工と穴太の石工、石の需要量と石積みの技術の進歩、大量掘削土の処分先と安政大地震の被害地域、膨大にストックするほど採石した理由、短期間施工と天下普請、石揚げ場・港の護岸と江戸市中のストック場、車両の発達と欧米の石造道路、近世における石の文化の出現と政治権力の強さ、江戸への石の運搬方法、進上石と名石、など。