第98回
(話題)  盛り場考
(要旨)
都市の中の祝祭的空間である「盛り場」には、繁華街(昼の祝祭空間)と歓楽街(夜の祝祭空間)がある。江戸の歓楽街は、18世紀の中頃はやくも形成され、その基本的な構造は近代の東京にも受け継がれて今日的なネオン街の原点となっている。ここでは、歓楽街としての夜の盛り場の歴史をたどってみることにする。
江戸の都市空間は自然や地形と密接な関係があり、歓楽街は水場・水際および山際・台地際(山の手の傾斜地)に発達していった。吉原・浅草・深川も隅田川の水際にあり、四谷・神田・湯島などは山際に形成されている。そこは、神社仏閣ともむすびつき、信仰と遊興の空間が重なっている盛り場が多い。また、火除地として設けられた両国広小路や上野広小路に出現した仮設の茶屋も次第に常設化し、盛り場に発達していく例も見られる。
江戸の歓楽街には「色里」と「花街」とがあり、花街(三業地)とは料理屋・置屋・待合の三業種(1.料理屋は食事を供する店、2.置屋は芸妓の斡旋所、3.待合は男女の逢引きの場を提供する)があり、料理屋で男女が夜を共にすることはご法度(大阪では許容)であった。江戸においては、水茶屋(喫茶店)・料理茶屋(料理店)・引手茶屋(遊女仲介店)・出合茶屋(ラブホテル)、さらには芝居茶屋(観劇予約飲食店)・陰間茶屋(ホモ専門逢引宿)などがあり、常設化されると区別が付き難くなっていった。
江戸の茶屋は、「酒を飲む所」から出発しており、江戸の盛り場の成立には酒が商品化され自由に飲めることが前提にある。“享保(1716〜1735)半頃まで価を出し食事せむ事思いもよらず”だったものが、“その後両国橋詰の茶屋、深川洲崎・芝神明などに料理茶屋ができ(嬉遊笑覧)”た。そして『世事見聞録』(文化13年・1816)に“水茶屋といへるもの町々所に出来て結構の造作をなし”て、常設となり、しかも“茶をたべる事ばかりの客は下品の客にてすべて小女美婦に給仕をいたさせ酒宴の宿をするなり”と記録されるようになっていく。やがて“料理茶屋・水茶屋は、表は格子戸で遊女が並び二階には枕席に侍る小部屋を作ったり、あるいは表の店から裏の隠れ部屋へ行き抜けるよう(山下新談)”に変容していくのである。
当時、武士が町人に交じって遊ぶのは吉原遊郭でも許しておらず、天保3(1743)年には“近来諸大名留守居共、所々茶屋等にて出会、猥成遊興仕由風聞候、向後茶屋等にて之出会いは相止させ”と禁止令が出ている。一方、文政4(1821)年、幕府は料理茶屋で女を抱えることを禁じており、この禁止令は嘉永元(1848)年に“女を抱置芸者為致候儀は勿論娘妹等にても候とも其家にて一人を限り可申”と緩められるが、置屋などの複雑な手続きを経るよりも安直手軽に遊興する現状を認めざるを得なかった処置と言えよう。タテマエとホンネのつかい分け、このような花街はキャバレーが大衆化する昭和30(1955)年頃まで100年以上も殷賑(いんしん)を続けるのである。
江戸の盛り場を形成するための酒の供給は、灘からの下り酒であった。酒の大消費地は京・大坂・江戸だけ、かつ米・水が適し運搬便利な酒造地は限られる中で、灘は、伊丹・池田から酒蔵が進出して江戸向けに形成された酒造地であった。たとえば、天保年間の樽回船の江戸積の酒は売上の94%以上を占めるようになる。量は“天保前までは80〜90万樽、天保の改革以来は40〜50万樽で、別に近郷からの地酒10万樽(守貞漫稿)”といわれる。江戸は単身赴任者が多く男性数が女性の倍以上という特殊な人口構成であり単純比較できないが、かりに江戸の飲酒人口100万人、量は100万樽とすると、1人/1年/1樽=4斗を消費したことになり、現在の2斗9升(洋酒を含め)と比べてかなり多い。
いずれにせよ一般庶民にとって酒は安価なものではなく、祭などのハレのとき、あるいはケガレを清めるためなど限られていた。一般的には、ハレの日は一年のうち70〜80日(中国地方の標準的農村(昭和30年頃)の調査結果もほぼ同日数)、江戸の町のは、祭礼や縁日が多く、地域としては年中ハレの日が続くところといってもよかった。仮設の酒を飲む場所は、常設茶屋へ発達し、外飲の習俗が広がっていった。もちろん、武士や町人一人一人をみると毎日飲む人は少なかったであろうが、飲もうと思えば外飲できる、それが江戸という都市での盛り場の装置化というものであった。
都市は、空間的にみると日常の中にハレとケが混在しており、とりわけ盛り場は「ケハレ」の場といえよう。広辞苑では「ケ」を「日常」としているが、日常の生活でも忌(禁則・弔いなどケが枯れた)の日=「ケガレ」があり、それを戻す為の「ハレ」の場・行為をもつという二極対比でなく、もう一つの常設されている「ケハレ」の場・極であると言いたい。
盛り場の衰退と災害・戦災の関係、日本とアジア(集中街区的)と西欧(分散的)の盛り場、茶屋の取締まりと吉原の圧力、盛り場の関東と関西の空間構造、遊興(飛田など)と階層、ケ・ハレ・ケガレ・ケハレは生活概念か空間概念か、水際・山際への形成理由と所有者不明瞭地、茶屋の「茶」の由来と裏営業のカモフラージュとしての「茶」、江戸の繁華街・歓楽街の重層性と東京のターミナル起点のショッピング繁華街、ブラジリヤなどの都市計画と盛り場、など。