第84回
(話題)  博物館の住宅展示を考えて−人々は生活史をどうみるか−
(要旨)
“住宅”というよりは広く住居・・生活の観点から、ワシントンのスミソニアン歴史博物館(NATIONAL MUSEUM OF AMERICAN HISTORY-Science, Technology and Culture)(以下、スミソニアン博)と江戸東京博物館(以下、江戸博)を比較してみたい。前者は国、後者は地方自治体の施設であり、対比に不合理な面はあるが、両者とも生活史・日常生活の展示をしている点から一般的例示と見られよう。
およそ“博物館”を検討する場合、1.物語り(構成)、2.コミュニティ、がキーワードとなろう。館は教育・科学の場でもあり、何をどう展示するか・何と何を組み合わせるか・どのようなストーリーにするかなどの構成からの面と、館の主張したいものが想定された観客層にどう解釈されるかというコミュニティからの面が考えられる。
江戸博とスミソニアン博との根本的な違いは、江戸博が館全体を物語りとし、順路を追って観覧して最後に江戸東京を総括できる“通史”のようになっているのに対し、スミソニアン博は個々の独立した企画展示の集まりで、いわば“短編集”でアメリカの歴史を見せようとしているところであろう。それは、アメリカが多人種・多民族の坩堝でありそれぞれの歴史物語りを持ち多文化主義をとっている表れであり、日本では江戸庶民文化は一つというような単一民族の神話に繋がる歴史観が背景があるからである。
展示について、江戸博は本物が少ないのが印象的だが、スミソニアン博は“実物展示”をポリシーとしており、マイノリティの主張も積極的に取り入れている点、映像・画像を多用し広告や商品のイメージを取り入れて工夫をこらしている点、住居や日常道具の実物で技術の進歩をたどっている点など特徴がある。しかし、歴史を実物で客観的に見せるといっても必ず主観は入るから、いずれにしても学芸員の意図を入れた展示・演出と言っていい。むしろ限られた状況下で如何に主張を表現するかが彼らの悩みとも言える。
コミュニティについては、江戸博の観客にまじり密かに反応を採録したところ、1.グループで訪れ、互いに解説しあい、特に興味をもったものを確認する意味で解説を読む。2.知っているもの・馴染みのあるもの・なつかしいものを探すことから始める。3.人間に関心を持つ。人形があるとその生活に引かれ人間についての歴史として見る。4.展示されているものはそれらの代表であると見ている、などがわかった。
江戸博は計画の段階では、“見世物”といささか軽蔑的・批判的に言われていたが、私見では見世物結構と思う。其処で人々は“本”では得られないものを得るのであり、博物館はその特別体験・実際教育を与えるのが目的である。観客が19世紀の長屋を見てどう感じ、何を情報として持って帰るのか、博物館は展示が観客にどう理解され何を得て貰いたいのか、そこが重要なのである。その辺でスミソニアン博のあり方も参考になろう。通史としての江戸博は評価されるし、例えば予備知識を持っている観客に対し、銀座煉瓦街における犯罪場面の意外性などは注目される演出であろう。しかし、画一的・物理的な順路設定は、一部だけに興味を持つ観客には対応しえず、また、企画展に見るような意図を強調する展示や部落などのマイノリティの展示は一層の工夫が期待される。
スミソニアン博・展示の地域的歴史的範囲と実物のコレクション。スミソニアン博・単体展の集まり・観客視点の重視とイデオロギー・思想。スミソニアン博・ポリシーと学芸員の意図・見せ方、および観客への問いかけと観客への押し付け。明るく楽しい江戸東京博と世代間のコミュニケーションとネガティブ(部落など)な面の歴史展示。スミソニアン博のインパクトある展示(奴隷・鎖)の限界と観客の反応。同時代性とコミュニケーション。日米の歴史観の相違−幼児期から文化の多様性に触れ学習があり批判眼を養う米国と日本の生活史にまで届かない歴史教育。実物教育とレプリカの効用。など。