第78回
(話題)  「まち」の死に立ち会うとき−汐入をめぐって−
(要旨)
荒川区汐入は近世初頭に上杉謙信の4家臣が入植し拓かれたという伝承を持つが、旧家は川沿いの自然堤防に屋敷を構えて南側の低湿地を耕地としており、当初の広大であった各家の縄張が分家などの繰返しで細分されていく中で、集落の骨格が決められていった。その形の最大の特徴は、洪水時には水路として働いた、隅田川に対しおよそ45°振れた農道で、これが、後の宅地化に枠組みを与え、家々は元の農道とそれから分岐する路地に沿うかたちで建てられていった。路地は複雑に組合わさって汐入独特の町のかたちと、迷路のように見えても住む人々にとっては安全快適で豊かな場を生みだしていった。それは単なる通路ではなく生活の展開する「庭」であり、植木や花々で飾り子供が遊び年寄りが憩う、公共的な役割も持つ親密な生活空間であった。
寛永17年(1640)建立の誓願寺五輪塔に「汐入村嘉左衛門」の銘があるが、汐入は橋場村の「汐入」で砂尾堤の外にあり、「第六天」の魔所のイメージを持つ江戸の境界領域の開拓農村であった。それが近世の半ばには胡粉と大根の特産地となり、特に良質の胡粉(ごふん)は京都などで持て囃されるようになる。
明治に入り27年東京瓦斯千住製造所、29年南千住駅開業と周辺の開発が進んでいく中で、大きなインパクトを与えたのは39年(1906)の東京紡績(現ユニチカ)進出による土地買収(1200円/反)であった。これが汐入の地主に、土地を手放さずに自身で土地経営を行う契機となり、地主の親睦団体「汐入28軒」成立をみるのである。そして、関東大震災の被害もなく、日本橋魚市場の移転(大正12年11月〜14年2月)荒川放水路の完成(大正12年・1923)以降昭和初期にかけて、耕地の宅地化が急速に進み、借家・借地人が急増していった。それは地主による再開発であり、隣接する地主同志が申し合わせを行って、低家賃を想定した住宅を造り、利益追求ではなく銭湯や医者・商店など基盤施設を整備しつつ、町づくりをしていったのである。その意味で汐入は近代がつくった下町といえる。
戦後、農地改革を経て借地・借家人の持家化が進み、新住民の成長と任意団体の結成がみられ、一方、地主たちは親睦団体を「胡六会」に結成し直している。
こうして1985年には、この地域の人口は2414人、区の中でも高齢者・子供が多い年齢構成を示し、職業は自営業(27.0%)、無職(20.5%)が多く、勤め先が住居と同じとする世帯主は29.4%と多い。また、1棟当たりの敷地面積は、借地の場合は50m2未満、自己所有の場合は100m2以上が多く、床面積では借地の場合は40m2未満、自己所有の場合は50m2及び100m2の広さに集中している。建物は店舗・工場付住宅の存在(19.2%)が特徴的であり、所有形態では自己所有地+持家は12.5%、借地+持家は42.6%、借家(長屋、2戸1タイプが混在)は44.9%と借地・借家が多く、築後20年以上の建物が約2/3を占める。
一方、昭和44年(1969)都市開発法が成立し江東再開発基本構想(防災6拠点構想)が策定され、49年(1974)に白鬚西地区再開発計画が都施行事業として採択された。以後、地元交渉と修正を重ねながら、平成3年3月(1991)には第1回入居が開始され、転居後の住宅取り壊しが開始されている。
再開発事業の問題点をあげると 土地高度利用の思想は当然高層建築を生み地価は上昇する。スラム・クリアランス、スクラップ&ビルド、防災化というが、汐入は防災にはハード面でなくソフトで対処していた。土地への執着が薄れ、所有の類型化と定量化・抽象化が進み、物権至上主義は歴史をも金に置き換える。 家賃が住民の負担限界点を越え移転者が多い。事前調査が計画案に生かされず、歴史性を無視し画一である。低層から高層へ、鍵やインターホンなどの環境変化、移転先はバラバラで従来の家族的社会組織の解体を進め、住民参加の困難さを増す、などがあろう。汐入の開拓から町作りは地主主体で進められ常に住民と共にあったが、地主相互の調整機能の破綻もあり、洪水時に見られたような地主と店子の相互規定的関係から、権利の草刈場へと変わっていった。
この失われることに決まった汐入の町を、昔の都市生活の知恵や工夫を大切にする視点から今後の町づくりに生かすべく、民俗や路地・建物の調査・記録を進めており、移住が始まった現在も追跡調査中である。
(討論)
汐入の名の由来と洪水台風への対処・家の構造、地縁的つながりの崩壊と現代の町・情報通信網の発達、当時の計画策定と現在の再開発の方向、相互規定的関係と胡粉の生産性、越後大工と借家住宅のタイプなど。