第74回
(話題)  幻の東京オリンピックと万博
(要旨)
戦争により中止となった1940年(昭和15年)の「第12回オリンピック東京大会」については、中村哲夫氏(三重大学)の紀要「第12回オリンピック東京大会研究序説」が高く評価できるが、それは東京市役所発行の「報告書」と同様にいわばオモテ向きのものであり、ここでは私的体験を中心にウラの面も述べてみたい。
オリンピックとの関わりは1935年、東京市係長時代にドイツへ派遣された事が契機であるが、実はこの人選は私を左翼的組織運動から遠ざけるためのものでオリンピック招致調査は2次的なものであったとさえ考えられる。その報告書はオモテ・ウラ二通りを提出した。オモテは「ドイツの後援で第12回オリンピックが東京市に決定」といったものだが、ウラのそれはドイツとの同盟交渉の状況など市長限りでどこにも発表されない報告となった。当時ベルリン駐独大使館付2等書記官は「オリンピックの招致は戦争の準備だ」と明言していたが、事実、1936年11回オリンピック・ベルリン大会の選手村宿舎やオートバーン等の施設は、オリンピックのためのものでもあったが、戦争の準備行為で、大会後、宿舎はヒットラー親衛隊の兵舎と変わり、オートバーンは飛行場の滑走路に使われた。
スポーツを通じて友好と国際親善・世界平和を理念とするオリンピックは、IOCが主催し「市」が招請するものだが、11回ベルリン大会においてはドイツの力や栄光の象徴として利用され、「国家」として周到に運営されたのである。外国へは平和の競技への若人の参加を呼びかけながら国内では熱狂的な愛国と反ユダヤを教化し、「歓喜を力で」「スポーツは力を養う」のスローガンを歌い、美・平和・民族のオリンピックとしてナチス・ドイツを世界に宣伝するための大会であり、ギリシャからの聖火リレーさえもドイツ軍参謀本部の兵要地誌調査に利用された。
一方、東京オリンピックの招請・準備も戦争への歩みと重なっていた。招致の動きは1930年(昭和5年)にまで溯るが、31年の東京市会の決議により、1932年ロサンゼルスの第10回大会にあたって正式に「開国紀元2600年にあたる第12回オリンピック」の招請状を出している。この1931年満州事変勃発、日本はそれ以後15年におよぶ戦争に突入するのであるが、1932年満州国建国、1933年国際連盟脱退と、ここにおいて外交政策上オリンピックは、外に向かっては国威発揚のため、内に向かっては国家意識高揚のための政治的舞台として利用すべく位置付けられたと言えよう。そして1936年、IOCベルリン総会は12回大会を東京で開催と決定した。ドイツ・イタリヤの後押しなどにより、フィンランドを制しての招致成功であったが、その裏面には当時権力を増しつつあった軍部の強い支持があった。
招致の御礼の諸国歴訪では、欧州各国とくにソ連圏で「ドイツの真似か」と酷評されたことを覚えている。東京開催は、イギリスを中心とする反対とドイツ中心の後押しの間で揺れ動いたと言えよう。日本軍部の間でも確執があった。例えば聖火リレーを陸軍はシベリヤ経由、海軍は海上運搬を主張したが、前者はドイツの指令によるスパイ活動の目論みであり、後者は石油資源を念頭においた平和オリンピックの要望でもあった。
1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に日中両国は全面戦争へ突入、同年、臨時資金調達法などが制定され戦時統制経済への転換が行われた。東京市は開催決定と同時に関係者と大会組織委員会(OOC)を設立、実施組織として「紀元2600年記念事業部」をおき主競技場(駒沢ゴルフ場)や選手村などの建設準備に入っていたが、やがて衆議院で「挙国一致総動員の聖戦下にあり大会は返上すべし」(1937年)の意見が出され、侵略行為に対する対日感情が悪化するなか諸外国にも東京大会中止の風説が流布され、かつ交戦国での開催を疑問視する国も現れた。主競技場が必要とする鉄材1000屯は「オリンピックか大砲か」の選択の議論の典型であった。東京市は600屯に設計変更し木造競技場も考えたが鉄材使用の政府承認を得られず、1940年ついに第12回オリンピック東京大会は返上となり、11万余の収容力をもつ駒沢主競技場の建設も幻と終わったのである。
オリンピックと万博、古代オリンピックと近代オリンピック、ベルリン以前に評価されていた芸術競技、月島万博会場計画と市庁舎・ウォーターフロントに対する認識、万博道路計画と可動式勝鬨橋、臨海市庁舎計画と現在の内陸都市庁舎、明治神宮体育競技大会とオリンピック会場、2600年記念式典・オリンピックの融合と違和感、霊園と都市計画、戦後秘話・上野西郷隆盛銅像とGHQの丸の内駐留など。