第70回
(話題)  江戸勤番武士の生活
(要旨)
江戸を考えるとき、その特徴を端的に表現する「火災都市」をはじめ「消費都市」や「男性都市江戸」などのネーミングを思い浮べる。しかし、江戸がほかの城下町と比べて何よりも違うことは、城下には各地諸大名の江戸屋敷があったこと、そして、そこには常住の武士が数多く生活していたことにあり、これが江戸最大の特徴であるように思われる。戦後、江戸の歴史研究は、支配者・武士中心の視点から町人・庶民社会を中心とする視点に変化し探求されるようになったが、江戸の人口の半数は武士であり、武士の生活実態の解明も重要な課題である。最近は近世考古学の成果により江戸の武士の生活が徐々に判って来ており、一方日記などを含めた文献資料は各地に無尽蔵といえるから、両者相俟っての研究が待たれるところである。
大名が参勤交代に要した費用も大きかったが、江戸での生活に伴う出費は莫大なものであった。伊達研次氏の「江戸における諸候の消費的生活について」によると、たとえば、加賀・金沢102万2700石の延享4年(1747)時の年間支出総額は銀10300貫匁であり、そのうちの銀6000貫余は江戸、銀3206貫余は国許、残りは京・大阪で支出されている。つまり年間総支出額の59%が江戸で支払われており、そのうえ国許支出の中に参勤交代費・江戸往来諸入用を含んでいることを勘案すると、いかに江戸での支出の比重が大きいかが解る。また、江戸詰めの人数はどうだったのか庄内藩を例にとってみると、「寛文7年(1667)今度江戸に指置申人数」は「詰の年」で計780人、「留守の年」で計435人である。庄内藩の明和期(1764〜71年代)の総家臣数は2845名であることが判明しており、相当高い比率(詰の年で27%)であることが判る。禄高の比較から推し量ると加賀藩では、常時4300人程の武士が江戸上屋敷・中屋敷・下屋敷に詰めていたと思われる。加えて参勤交代は1700〜3000人に馬200頭位の壮大な行列であり、それらを受け入れる屋敷や経費が江戸に必要だったわけである。大名江戸屋敷の出費、江戸に金を落とさせる仕組み、ここに江戸の特異性がある。
万延元年(1860)国許・紀州に父・母・妻・娘(2歳)を残して江戸に着任した酒井伴四郎(27歳・禄高30石程度)の江戸日記も、個人的ながら人間味溢れる記録であり、単身赴任の勤番武士の生活ぶりが彷彿としてくるし、小遣帳と合わせ読むとなおその実態が明確になってくる。伴四郎は、衣紋方指南役として江戸にのぼり、紀州藩上屋敷・相の長屋に武士3人で同居しながら江戸勤番生活を始める。日記は、輪番制の食事当番の様子やおかずの内容をはじめ、衣紋方の勤務が月に3〜4日(8時〜午前中程度)で現在の感覚では極めてヒマな勤務であり、伴四郎が全般的に質素な生活ながら精力的に名所を見物し廻り、名物を食べ漁り、「琴春」師匠へ習い事に通うさまを伝えてくれる。また、ちり紙買取屋があったことや、深夜藩内長屋に入るための門番との交渉、相の長屋に「鍵」があったこと、師匠・家元制度の様子などが判る。
加賀藩上屋敷(本郷赤門)の天保の絵図には常時3000人住んでいたと言われる長屋群が描かれている。100万都市と言われる江戸が、大名の江戸詰人数などの調査で、より正確な人口を知り得ないかと案ずる一方、江戸はこれらの大名の概してヒマな勤番武士たちによって賑わい、支出された金でますます繁栄していったのではなかろうかと思えるのである。勤番武士も江戸文化の一翼を担っていたのである。
多人数の江戸詰めを置かねばならなかった本当の理由。参勤交代の人数制限、登城時の共揃人数、幕末の藩邸警備のための人数。江戸勤務の期間と勤務回数。時期および藩による勤番状況の違い。地方藩の城下町にみる大名屋敷(ミニ江戸城下町)。江戸詰めを希望する理由(本俸以外の手当と体験見聞)。江戸常住武士と単身赴任武士と江戸での雇い人。国許からの調達と江戸での調達(人・物)。長屋の台所と鍵。藩財政のデータについて(改革指標と実支出。個々の年貢記録と総計・全体像)など。