第69回
(話題)  江戸、初期の土地問題
(要旨)
江戸時代の農民は、土地を“所有”ではなく“保有”していたのであり耕作権を保証されていただけとするのが一般的であったが、最近、近代法の土地私有と同じ情況であったとの説も出ている。双川喜文著「近世の土地私有制」によれば、それは太閤検地で領地を分割し百姓の所有権を保証したのを根拠としたことから始まったとしている。また、1643年の田畑永代売買禁止令(当時の飢饉による離村防止の措置)が江戸時代を通じて覆っているように見えるが事実上はそうでないことを、武士が百姓の土地や町並地を購入し年貢を収めている幕末の例をあげて説明している。ただ武家地外の土地売買は江戸とその周辺に顕著で既に17世紀後半に例があり、これらの事例から土地をめぐり身分制は早期に崩れ、60(武士)、20(町人)、20(社寺)といわれる土地の住分けは早くから崩壊して入り組み状況になっていたのではないかと思われる。農村でも永代売買禁止令は生きていることになっているが、私有権の移動は初期から行われていた。領知権によるブレーキはあったが「保有」ではなく「私有化」されていたのであり、それは、権利移動が幕府の都合による場合、代替地を与え引越代を支払っていることなどでも傍証され得るであろう。
町人地に限るが、初期の土地売買・権利移動は具体的にどうであったか。1633(寛永10)年の相続・職人後職についての規定では五人組の加判が必要とされたが、この時点では町名主は町支配のかなめとして出現していない。「名主」の語は1649年の町触に初見され、1651年の法令には「家売買の儀、名主と五人組の加判で売買すべし」とあり、名主が相続・土地問題に登場してくるが、具体例は1639年の神明町土地永代売買の五人組加判(名主の記載なし)の沽券(こけん)書の他は不明とされていた。
ところが鈴木家文書に伊勢町の沽券を発見し、その間の様子が明らかになった。発見した「売渡し申家屋敷之事」によると、寛永19年(1642)のそれでは、五人組・きも入の加判と御奉行所御状の3点セットを条件として売買されており、その3年後(1644)の沽券では五人組と名主のみの記載加判で済んでおり、名主の登場する過渡期の資料ではないかと思われる。初期には土地相続・売買をめぐりトラブルがあって町奉行所の証明も必要とされたが、所有権移動の活発化につれ寛永期からその調整のため名主がおかれ、更に活発化する明暦大火以降その役割を発揮したのであろう。幕府は土地に関心を持ちつつも介入せず、利用して利益とする意図があったのであろう。拝領町屋敷などそのひとつのあらわれといえよう。幕府が土地に対して強権発動しない伝統と江戸以来の異様な執着心並びにそれを許した為政者の伝統は現在にも続いているように思われる。激しい地主の移動の一方、宝永7年(1710)の通町1丁目の例でもわかるように、地主は他所に居住し、管理人として家守を置き、江戸の中心部は家持主体から家守主体の町に変化していった。不在地主の土地を家守が運用するのは仮の姿ではなく本来の姿であったといえよう。
鈴木家文書から17世紀の日本橋で最も沽券金の小間高が大きい地域は大伝馬町・伊勢町・瀬戸物町など日本橋東側であり、ついで南側の通町辺と考えることができ、河岸・角地などに一段と価値があることがわかる。さらに町屋敷の経営は、地主手取金額の沽券金高に対する比(利回り)は平均3.9%で、貸金の10%より低く投資効率は決して良くなかったことがわかる。しかし火災都市江戸では建物より土地の運用であり、土地は借金の担保物権としても重要な資産であった。西欧において土地よりも建物に価値を見いだすのとまことに対照的である。
江戸土地価格の変化と米の不作・貨幣改鋳、沽券書金高の読み方とそれの持つ意味(株式の額面価格と実勢価格に似るか・価格よりも所有の証明か・沽券金高による納付金と売買取引の関係・ウラ金の有無)、所有権移動とお披露目金などの出費、寛永21年沽券書の名主(五人組の前に記載)の性格、港湾機能と地価、江戸の実質的な中心街と名目的中心街、大地主による江戸の土地所有状況と金沢・川越等地方都市の所有状況、地方(群馬の天田家)から江戸への投資と効率・ステイタス・江戸業界及び仲介者の存在、一般江戸住人の借家住まいと土地所有意欲、戦後シャープ勧告・農地改革による土地細分化と意識の変化、現代の土地問題に内在する江戸とその歴史の追求など。