第150回
(話題)  都心居住の再考−江戸東京の生活史・文化史の視点から−
(企画趣旨とフォーラム要旨)
フォーラムは、公開市民フォーラムとして開催した。また、東京都歴史文化財団と共催して、江戸東京博物館企画展「東京の建築展−住まいの軌跡/都市の奇跡−」の関連行事の一つとして、実施した。
企画は陣内秀信委員で、企画趣旨が次のように述べられた。
都市が魅力をもつには、都心にもしっかりとした住宅の形式が確立し、人々の暮らしが営まれることが必要である。歴史を振り返ると、江戸の町には、町家と長屋からなる高密な市街地の中に、独自のコミュニティと生活文化が生まれた。庶民の住まいそのものは狭くとも、周辺の路地、水辺、盛り場などと一体となった魅力ある都心居住が成立していた。昭和初期の東京にも、看板建築という近代町家が生まれ、同潤会のアパートハウスなど、モダンなライフスタイルと結びつく都心居住の新しい形式が誕生した。
だが、戦後はもっぱら郊外への住宅地の拡大にともない、都心居住は力を失った。しかもバブルの時期、東京は住めない都市とのイメージを強めた。しかし、地価が下がった現在、再び都心居住が見直されている。それに伴い、高層マンションの建設が歴史的な地域環境を破壊するという問題も各地で起きている。今こそ、都心に住むための理にかなった建築の形式を確立し、生活文化を再構築することが求められている。
フォーラムは、時代順に5つの講演があった。
波多野純委員からは、「江戸のまちと住まい」と題しての次の講演があった。
江戸は、まさに都心居住、職住一致、職住近接の地であった。町屋敷の多くは、中心部であっても表店と裏長屋からなり、庶民が暮らしていた。生業から暮らしぶりまで手に取るように分かる者同士の交流、情報交換があった。過去を詮索しないマナーも成立していた。その交流、九尺二間の裏長屋では、何人も寄れない。それを補って余りあるのが盛り場である。寿司や天ぷら、屋台店でうまいものが食えた。楽しいものを見たり、しゃれたものを買えた。「書をすてよ、町に出よう」は、江戸の町以来の伝統である。近代の都市計画は、中心市街地から住民を追放し、高密度商業地や官庁街を形成させた。町の将来を決定するのは住民である。住民のいない町は、資本の論理だけで将来が決定されてしまう。そんな町にしないために都心居住を考え直したい。
初田亨氏からは、「東京近代の町家と繁華街」と題して次のような講演があった。
明治中頃には東京の人口は江戸時代と同じように100万人を超えた。その後、明治後半には200万人を超える。産業の発達と共に中産階級の人々が増え、住宅が不足し、独立家屋、長屋、店舗併用住宅などの貸家がつくられていく。大正時代になると住宅地の開発も進められていく。このような中で、江戸時代の文化を受け継ぐ下町に対して、山の手と呼ばれる文化的にまとまった地域も誕生している。山の手に住む中産階級の人々が増え、彼らが下町の繁華街を支え大きくしていった。明治後半には勧工場が建設され、百貨店が誕生した。大正末期には、喫茶店も急増する。人々は都市の中を動きまわり、その賑わいにまぎれることを楽しんだ。
大月敏雄氏からは、「昭和初期のアパートメントハウスとライフスタイル」と題して次のように講演があった。
同潤会アパートというエポック・メイキングな建物群が関東大震災後に出現したが、これはインパクトがあった。「アパートメント・ブーム」「アパートメント・インフレ」というような現象が起きた。同潤会アパートを中間点として、大正期から昭和戦前期における「アパートメント」という新しい居住スタイルが社会に浸透していった。そして戦争後、都市居住観が戦中・戦後混乱期・高度成長期で変容し、現在の「マンション・ブーム」に繋がっている。
森まゆみ委員からは、「近代東京の下町」と題して次のような講演があった。
下町の代表格は、神田、日本橋などで、明治半ばなると、下谷や浅草、芝も下町に入る。下町には職人、小商人、工員などが多く住んだ。彼らは地方から出て来た者が多く、長屋や路地を含む町で生活のための新しい相互扶助の共同性を作った。下町の人情は非歴史的に存在するのではなく、モノを貸し借りしなければ生きていけない貧しさから生まれた。谷中・根津・千駄木地区の3年にわたるフィールド調査から、下町の生活の構造が明らかになった。
東孝光氏からは、「東京の都心に住む」と題して次のような講演があった。
大阪の町中に育ったが、東京で独立を考えた時、職住一体の暮らしをするには都心しかないと思って、都心に自宅を建てた。大阪は町民の町であるが、東京はお屋敷や下町が混合していて魅力を感じた。土地6坪に35年住み続けている。それが可能なのは、江戸以来の独特の町の構造をつくり出すひだの多い地形、そこに発達した変化に富む都市空間、そして長年に渡って蓄積された交通と情報のネットワークなどの支えがあってのことである。この都心固有の力を地形や歴史の蓄積を無視した一律の都市改造で押しつぶしてはならない。