第145回
(話題)  遺跡から江戸の生活文化を探る−江戸考古学最新情報−
(企画趣旨と要旨)
フォーラムの企画者、波多野純委員から、「いま、なぜ江戸考古学か −地域のキュレーターを集めて−」と題して趣旨が次のようにまず述べられた。
明治時代以来、考古学の発掘調査は原始古代を中心に進められ、近世が対象となることは少なかった。近世考古学が注目されるようになったのは、ここ20年のことである。特に江戸には、当時の町家や武家屋敷がほとんど残っていないため、江戸時代の住空間さらに生活文化を知るには考古学の成果に頼らざるを得ない。
各区や東京都による江戸の発掘成果は、建物遺構(礎石・穴蔵)のみならず、上・下水施設や護岸などを含めた生活・都市空間の解明、陶磁器・土器の分析による生活文化の解明など多岐に及んでいる。
しかし、優れた遺構であっても、発掘調査終了後には破壊され、新たな建物が建設されるのが通例である。国民的話題にでもならない限り、保存されることはない。また、考古学以外の研究者が考古学の成果を援用しようとすれば、情報に神経をとがらせ遺跡見学会に足を運ぶか、報告書に頼らざるを得ないのが現状である。
最前線で発掘に取り組んでいる地域の専門家に、近年の発掘成果を発表を聴き、広い分野の研究者がその成果を活かせるよう学際的に討論したい。
つぎに、小林克氏から、「江戸考古学の多様な成果と展望」と題して、次のように主題が解説された。
都市・東京の地下に、江戸が眠っている。これは最近、20年来の発掘調査により明らかになった。都心各区では江戸遺跡の調査体制を整備し、江戸遺跡の発掘調査が多数実施され、関連諸科学との連携を計り、その成果は多岐にわたっている。近世史の研究者もその調査段階から加わり、新たな歴史学的成果も蓄積されつつある。しかし、考古学は開かれた科学であり、決して近世史の補助としてのみ存在するものではない。ひとつの地域には原始・古代からの歴史があり、遺跡・遺物としては、決して現代に近いとか、限りなく古いことがその資料的価値を決めるものではないのである。
最新の様々な学問分野との連携の上で、新たな都市江戸像を模索している地域からの研究の成果を示してもらいたい。その上で一遺跡から一地域へ、そして、都市江戸へと研究を広げる方法や、他分野との連携方法、そのあり方について、忌憚なく議論できる「場」をつくりたいと述べられた。
そして、講師の後藤宏樹氏からは、「江戸の開発と環境」と題して次のような講演があった。
21世紀は世界的に都市に人口が集中するといわれる。こうした意味で東京は、江戸開幕から400年という、世界的に見ても希有なほど長い期間大都市を維持してきた。その成立や変移を考古学から明らかにする意義は大きい。古い、大きい、あるいは新発見だけが考古学ではない。考古学という物差しで都市を測り、江戸の開発と環境を考える。この視点から、江戸城普請や城下の開発から近世都市の大規模造成、溜池開発にみる都市での水質汚染、町人地や武家地の発掘調査から、各階層の居住空間のあり方、都市江戸のスケールを捉える試みなどが話された。
栩木真氏は、「江戸の西縁」と題して次のように講演された。
新宿の街は江戸時代以来最も変貌が激しい地域のひとつである。そうしたことから新宿区内では、開発に伴い多くの遺跡が掘り出されている。個々の遺跡から得られた情報は余りにも断片ではあるが、史料や絵図と組み合わせることで、より具体的な地域像に繋げられる。江戸城の西の入口、四谷を中心に、その変化が紹介された。
四谷一帯の変化は、52家の大名を動員して行われた寛永13(1636)年の外堀普請に始まる。発掘調査により確認された数メートルに達する盛土や切土は、この工事のスケールの大きさを実感させる。また、外堀普請は、堀の掘削とともに街区の形成をも企図したものと推測される。この結果、甲州街道(四谷大通り)に沿った町屋、その奥に位置する旗本・御家人の屋敷、谷筋に位置する寺院といった四谷地域の基本的な街区の構成ができあがる。そこからは、建物跡や井戸、地下室といった「遺構」や廃棄された陶磁器を主体とする「遺物」が検出される。しかし、遺跡のあり方は、必ずしも区内一様でなく、東西では明らかに粗密がある。遺跡から捉えられるこの違いの位置付け、市街化あるいは街の暮らしがどのような内容を持つのかが明らかされた。
新宿区における地域史のひとつの課題が示された。