第142回
(話題)  神田多町−震災復興の「まち」から見えるもの−
(要旨)
神田多町は、近世都市の基本である両側町が残り、江戸以来の下町のありさまやコミュニティが濃厚に残っている地域である。昭和3年(1928)まで江戸以来の神田青果市場があって、そこは神田経済の中心であった。まず、この神田多町の江戸から現在まで振り返ることからフォーラムが始まった。
神田多町には江戸時代の建物は残存せず、江戸の「まち」を見るには、震災復興期の町並みを手がかりしなければならない。震災復興事業では、江戸の下町のほぼ全域で行われた区画整理事業がどういう設計思想で実際はどうだったのか、ほとんど議論されず、町が再編されていった。その後の空襲で焼け残った地域は、戦後の住居表示変更もしなかった。戦後の都市計画では、木造建築物や路地が多く残っていて防災上問題がある。また、高度利用できないと否定しつづけられてきた。それでも高度成長期を経てきた。そして、バブル期遺産である駐車場・空家、震災復興遺産の町家を前にして、大手町・丸の内と違うまちづくりを目指していることが示された。このことは、全国の中心市街地の衰退状況に共通する課題でもある。
この話の後、神田多町を見学して、古くて新しい「まち」をかいま見た。