第134回
(話題)  江戸東京フォーラムと住総研
(話題)  墨壷(伝統的な)の履歴書
(要旨)
江戸東京フォーラムの事務局をしている当財団の前専務理事と元職員が講師となった。清水建設会議室を会場として、同社の社宝を見学した。
大坪昭氏は、江戸東京と清水屋、清水建設と住総研、住総研と江戸東京フォーラムについて述べられた。
そもそも清水建設は初代喜助に始まる。喜助は文化元年(1804)に江戸に上って、日光東照宮修理事業に携わり、神田鍛冶町の裏店に所帯を持った。再三焼失する江戸城の再建工事に関わり、化政期の経済的文化的な上昇を背景に清水屋を開き、棟梁としての地位を築いた。二代目は初代の娘婿で、三井や渋沢栄一などの新しい経済界と接触するとともに、維新の時代において、築地ホテル等の洋風建築に挑戦した。二代目喜助の娘婿、村田満之助が当主になったころ、西洋の建築様式に対応しなければならなくなった。それで、満之助はトータルな知識や技術の習得のために、学者や設計者に接触していく。四代目を支えたのは、原林之助と小野釘吉である。釘吉は工部大学校造家学科を卒業して清水組に入った。学究肌の一面をもって、近代化の歩みを引っ張っていった。実質的な四代目である。
住総研との関係は、昭和23年(1948)、釘吉の次男で、清水家の当主であった清水康雄に始まる。清水建設社長の康雄は、戦後焦土と化した東京にあって、住宅事情を緩和するために、新しい住宅形式を研究し、実践に移すことを目的に財団を設立した。しかし、資金が不足していたため、まず10数年は増資に専念した。昭和39年(1963)から10年の間に3か所、311戸の住宅を建設するが、ときすでに住宅公団の最盛期であった。財団の役割は社会とずれていた。そこで、住宅を造るより使う立場に重点を移し、研究助成活動を委託研究という形で始めた。それが昭和47年(1972)で、その後20数年にわたり、10億円以上、500名を超える研究者に研究助成を行っている。
更に住宅を幅広く歴史的・文化的な存在としてとらる江戸東京フォーラムが、昭和61年(1986)に発足する。時間軸を歴史に置いて、空間軸に学際的研究をもって、立体的に都市の姿を考えていこうというものである。
大都市江戸東京は400年であるが、その後半200年間に育まれてきた清水屋から江戸東京フォーラムまでの流れが語られた。
吉田良太は、かつて清水建設で、釿始式の式具や墨壷などを研究している。清水建設では「伝統と技術のシンボル」として、それらの社宝が陳列されている。社宝を見学後、研究が発表された。
江戸時代、大工の棟梁は木工事だけでなく建築造営全体の中心となり、進行に伴って左官・屋根職など関係各職を調整し統括する役目を負っていた。また、地鎮祭・上棟式などの式典も棟梁の行う重要な行事であった。
墨壷は太古の昔から使われている。それぞれ大工が自ら作り出したもので、形も彫りもさまざまである。尻割れ型・杓文字型などの型に分類を試みた。また、姿や形の変遷を、記紀万葉への出現・発掘品や正倉院御物・古絵巻物に見る描写・展示現品からさぐってみた。
特に清水建設が保有している式典用墨壷の来歴と日光東照宮の国宝墨壷には、「双子」の関係が成立すゆことが言及された。これらは製作年や使用歴などがはっきりしている数少ない墨壷であり、美術品としても優れたものである。
大工職人は道具を自分の腕の延長として生活してきた。その誇りやいきざまが語られた。