第125回
(話題)  関東・東国の部落史−部落史の「見直し」論議に引きつけて−
(要旨)
部落内文書はいくつも公刊・研究されいて、関東の近世部落の歴史像を、在地側から描くことが可能になりつつある。描きだされる部落像は、これまでの「教科書的」理解とは、相当に異なったものになっている。生産・文化・抵抗、様々な場面で主体的な行動が見える。
例えば、近世政治起源説で、部落は「人の嫌がる仕事を強制された」と理解されてきた。だが最近の研究は、織機の心臓部である竹筬(縦糸を整序する器具)作りは部落の事実上の専業であったという史実が明らかになった。産業文化の重要な担い手だったのである。
皮剥・革鞣は近世部落の専業を代表する一つだが、斃牛馬を取得しうる範囲=「職場」の仕切りは、部落に委ねられ、領主権力は全く手出しをしなかった。「職場」は芸能の「勧進場」と上下二重と観念されていた。権力による設定や「役」の強制では説明しえない事実である。そもそも「人の嫌がる仕事」という規定に問題があるのだろう。
従来、部落差別は身分制度が生み出したと考えられてきた。だが、斎藤洋一は『身分差別社会の真実』の中で「士農工商・えた・非人」を「虚構」と退け、「武士−百姓・町人(平人)/えた・ひにん」とすべきと主張した。「賎民」制や差別も、“重層的な身分ヒエラルヒーの最底辺”ではなく、“平人ではないと排除・差別された”ことになるのである。幕藩権力による被差別身分への固定化は、村(町)など在地社会の中に醸成されてきた差別を前提としていた、と理解される。そうした関係は、18世紀以後一層深まった。それを止揚しなかった日本近代も問わなければならない。
なお、戦国中期には、東国の部落は、長吏・かわたとして史料に現われる。