蔵書探訪・蔵書自慢 7
すまい・まちづくり研究のシーズベッド 西山夘三記念すまい・まちづくり文庫1

西山文庫が本格的にオープンしたのは1997年11月8日、あれから早いものでもう8年近くになる。この間、どれほど多くの関係者の時間とエネルギーが投じられてきたことか。その全体像は計り知れないものがある。生前に厳しい指導を受けた上に亡くなられてからもまだ苦労するのか、といった不謹慎極まりない発言があったぐらいだ。
すまい・まちづくり研究において多大の業績を残した西山夘三は、その研究遺産の点においても際立って大きい存在だった。それが、当初の段ボール箱600個になんなんとする研究資料の雑多な山から、現在では分類された資料ファイルが整然と並ぶところまできた。天地人という言葉があるが、私にはこの言葉に象徴されるように、西山文庫はたまたま時代の流れ、地の利、そして人の輪が重なって奇しくも生まれたとしか思えない。誰それが頑張ったとか、誰それのお世話になったとか、そんな個々のレベルを超えた大きな偶然の力が後押ししてくれたような気がするのである。資料の具体的な中身の紹介は次回、安藤理事長に委ねるとして、私はなぜ西山文庫が成立したのか、その時代背景と現代的意義について語りたいと思う。

いまから思えば、最大の難関は資料そのものの保存価値にかかわる大論争だった。これがその後の方向を決めた分岐点だったと思う。研究資料の保存を巡って判断するのは、その時代の人間だ。だがその時点で、私たちは果たして的確に価値判断できるのか。考古学の発掘現場においても同様の問題が生じるという。発掘してもそれを保存し分析出来るだけの条件と能力がなければ、発掘は破壊行為と化してしまう。西山資料の多くがまるで紙屑かガラクタにしか見えないような中で、どれを残すか残さないか、捨てるのか捨てないのかの延々とした討論が続けられ、ついに整理保存ではなく一括保存の方針が決定された。
しかし、それからが大変だった。細切れの資料が多いだけに整理作業は難航した。でもいまだからこそ言えるが、やはり一括保存の判断は正しかったように思う。それは資料整理が進む中で、西山資料がすまい・まちづくり研究のシーズベッド(苗圃)のような性格を持っていることが次第にわかってきたからだ。そのことは、文庫訪問者の専門分野の変遷をみてもよく分かる。当初は建築分野の若手研究者が多かったが、最近では社会学、家族学、経済史、産業発展史、中小企業論、科学論、科学運動などの広範な研究分野に広がってきている。西山文庫の存在が知られる中で、関連する学際的領域の研究者が次第に利用するようになってきたのである。
このことは、西山の研究資料がすまい・まちづくり研究の発展に応じて、各方面からのアプローチに堪えるだけの十分な資料価値を有していることを示している。研究が歴史的視座に立脚していなければ、それがある時期に脚光を浴びたとしても、次の瞬間には文字通りガラクタとなって時代から見捨てられる。しかし、この点で西山の研究は時代の制約を免れないとしても、戦中戦後を通して開花したすまい・まちづくり研究は、戦後60年の現在に至ってもいまだ輝きを失っていない。むしろ草創期の原資料としての資料価値は、各専門分野からの比較研究の対象としてもますますその重要性を増しているといえよう。

しかし、問題はこれからだろう。これまでのように西山文庫の名前にこだわり、戦前から現在にかけての関連資料を通史的に網羅することに精力を傾けるのか、それとも「昭和すまい・まちづくりアーカイブス」として昭和期に特化した研究資料館としての発展方向を目指すのか、そのあたりの戦略シナリオがまだ描ききれていないからだ。おそらくは自前でその方向を見いだすことは難しいだろう。それだけのリソースをわれわれの力で調達することが不可能だからだ。
だとすれば、関連学会や各大学に呼びかけていろいろな可能性を探るほかはない。そしてその場合には、後者の昭和研究資料館としての方向がどちらかといえば有望なのではないか、というのが目下の私の考えだ。なぜなら、各大学や各研究室に昭和期を代表するすまい・まちづくりの研究資料の提出を呼びかけ、それらの統一名称を「昭和すまい・まちづくりアーカイブス」とすれば、共同運営も不可能ではないかと思うからだ。
でも、そんなことなど「夢のまた夢」と言われるに決まっている。現状を維持していくだけでもでも手いっぱいでは、「むべなるかな」というべきだろう。

広原 盛明(ひろはら・もりあき)
(「すまいろん」05年秋号転載)