蔵書探訪・蔵書自慢 19
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻 関野貞資料

東京大学大学院工学系研究科建築学専攻には工部大学校・帝国大学工科大学以来の資料が多数所蔵されているが、今回関野貞資料について紹介させていただきたい。

明治期より文化財保護行政に深く関わる
東京帝国大学教授であった関野貞は慶応3年(1867)生まれ、同じく教鞭をふるっていた伊東忠太も同年生まれで、実はこの2人、年齢が変わらない。しかし伊東と比べると一般的には知名度は低く、関野の名前が取り上げられるのは、平城宮跡の発見や法隆寺再建非再建論争くらいである。むしろ韓国や中国などの東アジアや、美術史・考古学など異分野での評価が高いといっても過言ではない。しかも、喜田貞吉と繰り広げた法隆寺論争は、若草伽藍跡の発掘により、関野が唱えた非再建論とは異なる結末を迎える。
しかし、関野の功績はこれだけではない。一番のそれは、日本、朝鮮半島、中国を通して行われた建築を含む古蹟の緻密な調査であろう。さらに、日本と朝鮮半島においては文化財保護行政の基礎をつくり上げた。伊東が文化財保護政策のパイオニアであれば、関野は実質的な運用者である。明治30年(1897)の古社寺保存法制定当初より亡くなる昭和10年(1935)まで、関野は深く文化財保護に関わり続け、関野の評価基準が文化財指定のもととなった。一方で明治30年代には奈良県技師として実際の修理にも携わっていた。現在修理が行われている唐招提寺金堂の明治修理も技師時代の関野の仕事であり、小屋組にキングポストトラスを採用したのも彼である。
この関野貞に関する資料の存在は、一部の研究者の間では知られていたが、いったいどこに何があるのか全体を把握できている者は、ほとんどいなかった。当事者である大学関係者も、代表的ないくつかを除けば、段ボール何箱、棚何段という把握の仕方にすぎない。関野貞資料が初めて全貌を明らかにしたのは、2005年、東京大学総合研究博物館において催された『関野貞アジア踏査』展覧会であろう。ここに至る経緯は「関野貞資料群 保存状況と解説」(『関野貞アジア踏査』東京大学総合研究博物館)に書かれているので詳しくふれないが、2003年に東京大学生産技術研究所藤森照信研究室で保管されていた資料群が総合研究博物館に移管され、ご子息である関野克氏が自宅で保管していた資料が明らかになるなど、数年の間に次々と姿を現したことも大きい。

関野貞資料の内容
資料数があまりに膨大であり、また博物館や資料館、図書館という組織でもないため、所蔵資料の整理・公開作業が十分に進んでいるとはいえないが、全体像と状況を紹介したい。
<瓦、土器、せん(土+専)>
中国・朝鮮半島・日本の古瓦や土器類。総数は2,000点を超える。特に瓦の文様から展開する編年研究は有名である。なお、もう一人のご子息である関野雄氏が東京大学文学部教授であったことから、一部は文学部に保管されている。
<模写、拓本>
当時東京美術学校図案科に在籍した小場恒吉により1912年〜14年に作成された高句麗壁画古墳の原寸大壁画模写。他にも高句麗の広開土王碑や中国山東省の武氏祠漢画像などの拓本類や地図などがある。総数は約700点に及ぶ。
<ガラス乾板>
海外調査時を中心に、伊東忠太や塚本靖が撮影したと思われる乾板も含めると、12,000枚を超える。『朝鮮古蹟図譜』等の出版物に使用された写真も含まれ、現時点では約3分の1程度の焼付作成が完了した。
<調査・研究資料>
図面、野帳、メモ、スケッチなど。東京大学総合研究博物館に所蔵される「関野貞資料」には、フィールドカードと総称されるキャビネサイズの特製カードに記されたメモ群があり、これに関しては、既に目録が発行され(『関野貞フィールドカード目録』2004年、東京大学総合研究博物館標本資料報告No.53)、現在公開に向けたデータベースを作成中。
<日記、個人記録>
一高時代に記した『世辞之栞』、明治39年(1906)の中国旅行記、大正7年〜9年(1918〜1920)の欧州旅行記である『遊西日記』等の旅行記や、大正3年(1914)から亡くなる昭和10年(1935)7月まで続く日録など。現在、翻刻出版に向けて準備を進めている。

文化財評価の様式理論
次に、いくつかの資料を紹介したい。
関野が生み出した建築を見る方法の一つに、細部の形の変化から様式の変遷を辿ることがある。時代により一貫した様式が存在すると考えた関野は、多くの調査をもとに造り上げたこの様式理論により、次々と年代を比定していく。後年この年代が根拠となり、文化財指定が進められていくこととなる。この方法は建築のみに留まらず、彫刻や絵画においても同様であった。仏像の耳の形、衣紋の襞、と細部を比較することで、時代特有の様式を見出す。さらに、建築と仏像は単純に形で比較することはできないが、抽象的な形容表現を用いることで、共通した様式観を表現しようと関野は試みていた。
また、先日不幸にも放火の被害にあった韓国ソウルの南大門(崇礼門)。関野が初めてこの崇礼門を調査したのは明治35年(1902)である。この調査は東京帝国大学から建築調査のため派遣されたものであった。次に訪れるのは明治42年(1909)であり、韓国度支部建築所からの依頼で、建築物の調査、特に評価を求められた。この際使用した評価の方法は、日本において明治10年代より岡倉天心らにより進められ、関野自身も奈良の古社寺に対して行った等級評価を応用した「甲、乙、丙、丁」の4段階評価であった。関野は、開城(現朝鮮民主主義人民共和国)の南大門と同様、関野のいわく「簡撲壮重」という高麗時代の特色を持つことから「甲」、すなわち最優秀なるものと評価をしている。それを受け1934年、当時の朝鮮総督府により宝物第1号に指定され、その後1962年には大韓民国文化財保護法により改めて国宝第1号に指定された。

最後に
東京帝国大学退官後、関野は東方文化学院に研究員として所属し、主に中国の調査を続けている。移管機関である東京大学東洋文化研究所にも、収集資料が多数所蔵されており、これらは公開が進められている。このほかにも、奈良文化財研究所には奈良県技師時代の資料が所蔵されている。
所蔵機関が分散しているとはいえ、これほどまでに多義にわたる資料を残した研究者も少ないであろう。しかも、晩年になっても調査の精度は変わっていない。たとえ理論は踏破されても、いまだ資料的価値を高く評価されているのはこのためである。

角田 真弓 (つのだ・まゆみ)
(「すまいろん」08年秋号転載)