蔵書探訪・蔵書自慢 14
京都工芸繊維大学美術工芸資料館−村野藤吾とそのアソシエイツが遺した図面資料

本誌のこのコーナーから当大学美術工芸資料館の自慢となるものを紹介するようにとの要請を受けたのが昨年の11月のことで、以来何を書けば良いものか思いあぐね果て、ある種の困惑を覚えて今に至っている。それと言うのも、我が館には他人様に「自慢」できるようなものはないと、常々謙遜で控えめにしているからである。それでも駄文を書き綴らなければならないのは苦痛であるし、読まされる方としても面白くないのは目に見えている。誰かの助言か示唆かで、ともかくも「ノウハウの蓄積としてのアーカイヴ」、「歴史を検証するためのアーカイヴ」があってそれを紹介すれば充分に本誌の思うところに応えることになるのではないか。本誌の性格上、「歴史を検証するためのアーカイヴ」は少なくとも建築の或る部分の歴史を検証する援けとなるようなアーカイヴ、それを資料と読めば、明治期の大工や棟梁らが認めた寺院修復用の図面の類件もあるが、それをここで採り上げるのも障わる(さわる)ところが多ろうと忖度(そんたく)して、そこは、20世紀、特に後年に我が国の建築界で何かと注目を集めた村野藤吾とそのアソシエイツが遺した図面類および村野藤吾の個人的な建築関係蔵書に光を当てることをこの駄文の目するところとしたい。
これらの図面が京都工芸繊維大学美術工芸資料館に託されることになった経緯の詳細は省くとしても、何よりも、先刻の神戸大地震での罹災が契機となっていることは否み得ない。かねがね、村野・森建築事務所を主宰していた村野漾氏には、同朋舎による『村野藤吾建築ドローイング集全8巻』の編集時より、所収される予定の図面群の散逸は、文化財保全の意味から、それだけは避けて頂きたいと願い上げていたことは慥かで(たしかで)村野漾氏がこれに応えての決断であったという縁の賜物なのである。(ここで村野藤吾なる建築家を紹介する文章を連ねるなど野暮以外の何物でもないので止す。)
このようなことは或る意味では瑣末(さまつ)でしかなく、我々としては今は亡き村野漾氏の深謀に少しでも答えを出すべく、それらの整理・調査に勤しんでいるのが現況なのである。思えば本格的な整理・調査作業に入るまでの予備的な時期から数えると既に15年が経っているが、お預かりした図面類の厖大な数とそれらの内容の多岐さの故に作業の進捗は思うようには任せず、加えて村野藤吾の建築図面に窺える夥しい(おびただしい)韜晦(とうかい)さにいよいよ巻き込まれ、作業は止まってしまうこと屡々(しばしば)である。そこまで図面の一葉一葉について子細に立ち入らなくても、それらの物理的特性を把握するだけで済ませる術もあろうかと思うが、やはりそうはゆかない。このあたりの作業行程の下敷きにしていたのはRIBA編纂のC・F・A・ヴォイジーの図面コレクションに関するカタログ・レゾネで、それに勝るとも劣らない村野についてのカタログ・レゾネを作成したいという下心が働いているのも、一時の中断の因であるようにも思われるのである。ともあれこれらの図面の整理・調査研究には大学が組織した研究会(現・石田潤一郎代表)が当たり、年次的にその成果を問うべく図面展を村野藤吾の命日を期に1999年以後毎年定期的に開催し、既に8回を数えるに至っている。またそれら図面は順次登録され、京都工芸繊維大学美術工芸資料館の公的な蔵品として扱われる。その詳細については美術工芸資料館が刊行する年報により報じることにしている。

文化審議会が関西大学の施設の一つ「簡文館」を有形登録文化財に指定したと最近報じられた(産経新聞、2007年3月17日)。去年の春に広島市の「世界平和記念聖堂」が、そして一昨年の秋には山口県・宇部市の「渡邊翁記念館(言うところの「宇部市民館」)」が国の重要文化財に指定されたことも記憶に新しい。指定された建造物は、なにかと残ることが可能であろうが、村野藤吾の記念碑的建造物とされる大阪の「十合(そごう)百貨店」、後進に自ら「遺すべきもの」と位置付けた出光興産の「松寿荘」、その傍らの「指月亭」は今はない。また(ついこの間まで協和発酵の施設として機能していた)戦時中の「宇部油化工場」もない。心ある人ならば誰もが一度は訊ねてみたいと密かに(ひそかに)念じていた宝塚 清(きよし)荒神(こうじん)の「村野邸」もあの震災の被害者として斃れた(たおれた)。物理的に消えるとなれば人口に膾炙(かいしゃ)されることも少なくなり、やがて人の記憶も褪せ、そして歴史の舞台から退場する。であればこそ、かつてそれらを作り上げてきた意図の塊とも言うべき図面の類仲こそは「歴史を検証するための貴重なアーカイヴ」でない筈はないと確信するに至るのである。或る種の補完を予想しつつ、少なくともそれら村野図面を介して、建築家村野藤吾が何と格闘し、何故の情念を燃やし続け、死の直前まで建築にかくも篤い「祈り」を込めたのかを読み解く手がかりくらいは与えてもらうことができるのではないかと思う。それにしても易々と読解可能な筆の跡を村野は遺さなかった。読み解き得ない者を困惑させ、大いに愉しんであるようにさえ思えるのである。図面だけではない、「洋行日記」や「茶道日記」の筆は頗る(すこぶる)しなやかで闊達(かったつ)、時には晦渋に充ち、あるいは竜跳虎臥の謂(いい)に相応しくはあっても、遺された者にとっては迷惑な「謎掛け」でしかないという声も仄聞(そくぶん)するのである。

お預かりしている主だった建築物件とその図面には、十合、大丸、高島屋百貨店を含む商業施設(6,785葉)、関西大学、横浜市立大学、甲南女子大学、早稲田大学文学部を含む教育施設(4,771葉)、プリンス・ホテル、都ホテルを含む宿泊施設(10,014葉)、各種銀行や大ビル等を含む事務所関係(15,592葉)、尼崎市庁舎、横浜市庁舎、宝塚市庁舎、米子市民会館等を含む公共施設(4,597葉)、日生日比谷ビル、読売会館、新歌舞伎座等を含む劇場施設(3,599葉)、戦時下における艤装関係(239葉)、中山悦次郎邸、中山半邸、中橋邸、中川邸を含む各種住宅建築(3,041葉)の図面を認めることができるが、目下の処これらと分類不可の全てを合計すると55,411葉を数える。
整理済みで蔵品として登録されたものに就ての詳細は先にも触れたとおり、京都工芸繊維大学美術工芸資料館が刊行する『年報』5(1996年度)、および『年報』8〜14(1999〜2005年度)、また美術工芸資料館と村野藤吾の設計研究会が刊行した『展覧会図録』1〜8(1999〜2006年)を参照されたい。(なお、村野図面についての照会もまた京都工芸繊維大学美術工芸資料館蔵品番号-AN.XXXX-を以てされたい。)
ここまで書いて、やっと村野藤吾とそのアソシエイツが遺してくれた図面類を、わが京都工芸繊維大学美術工芸資料館が蔵していることを自慢しても良いのではないかという感を抱くようになってきた。

●京都工芸繊維大学美術工芸資料館
利用は、閲覧希望の資料の有無を確認の上、資料名と希望日時を、電話、FAXまたはe-メールで予約すること。
村野藤吾資料の利用も、他の蔵品と同様、予め「閲覧許可願い」を出し、館員の時間的都合がつけば、それに応じることになっている。
606-8585 京都市左京区松ヶ崎御所海道町(図書館利用係)
電話 075-724-7191 FAX 075-724-7180 http://www.lib.kit.ac.jp/
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竹内 次男 (たけうち・つぐお)
(「すまいろん」07年夏号転載)