蔵書探訪・蔵書自慢 12
日本建築学会建築博物館伊東忠太資料

建築家、歴史家、批評家、旅行家、漫画家、教育者、夢想家、随筆家・・・・・・。伊東忠太(1867〜1954)に肩書きを付けるとしたら、これでもまだ足りないかもしれない。日本で最初の建築史家として知られ、「学会改名論」や「建築進化論」を唱えた明治きっての論客であり、築地本願寺や震災記念堂などの設計作品によって今も親しまれている。
現在、伊東が生涯に収集し、生み出した資料の一部は日本建築学会建築博物館に所蔵され、公開されている。一部とはいえ、量は多大である。活動に対応して内容も幅広い。建築界だけでなく、社会で広範に活用されるべき伊東忠太資料。筆者は整理に携わった一研究者に過ぎないが、この場を借りて価値を「自慢」させていただきたいと思う。

伊東の眼をトルコで追う
先日、トルコを訪れた折に、伊東忠太資料の中から、彼のフィールドノートを複写して行った。1902(明治35)年から1905(明治38)年にかけて、伊東は世界一周の遊学に旅立ち、その途中にトルコを訪問した。今から約100年前に彼が何を見て、何を考えたのか。フィールドノートを片手に追想したいと考えたのだ。
アヤ・ソフィアで「千変万化の妙」と記した曲線の装飾は、上層奥の柱頭にあった。ジャミィを巡ると、メシー・メフメット・パシャ・ジャミィのドームに「美なるbyzantine ornamentあり」とメモした着色スケッチと寸分たがわぬ形と色が見つかった。
伊東の観察は宗教建築にとどまらない。石造と木造を巧みに組み合わせたトルコの民家にも視線を向けている。現地でどの建物かを特定することはできなかったが、アンカラ滞在中に民家の断面や軒廻りを丹念に描いたスケッチがある。同じ建物を写真にも写している。「非常にpicturesque」「凡そ東洋的なる」というメモから、初めてのかたちに目を見張る様子が浮かぶようだ。
建築から住まいを見つめる眼差しは、人びとの暮らしにも連続している。伊東のトルコ訪問は日露戦争の最中だった。それから20年後のトルコ革命を経て、今のトルコでは、トルコ帽も黒ベールもまず目にすることが無い。それでも行き交う人々の表情や身振りに伊東のスケッチが重なり合って、やはり巧みだなぁと感じた。
フィールドノートの末尾に、将来の日本建築を考察した覚書きが残されている。1908(明治41)年に発表され「建築進化論」として知られる「建築進化の原則より見たる我邦建築の前途」と共通するものだ。
トルコは今まで考えられていた以上に重要な地であるらしい。伊東はアジアとヨーロッパの中間地点で、日本では教えられてこなかったビザンティン建築からイスラム建築にかけての太い流れを実感し、多彩な造形に魅かれている。そうした体験を通じて<日本らしさ>の定義も変わっていったに違いない。

資料の概要
こうして一世紀前の視線を追うことができるのも、資料あってのことである。伊東忠太資料の主な内容を簡単に説明したい。
フィールドノート−1893(明治26)年から1947(昭和22)年まで半世紀以上にわたって書き続けられた備忘録で、全部で74冊、総枚数は1万ページを超える。国内や海外での建築調査記録、設計作品のエスキース、論文や講演の骨子、日誌、予定表、妖怪画など、内容は多岐にわたる。
葉書絵−1914(大正3)年から1950(昭和25)年まで描き続けられた時事漫画。総数3717枚。
うきよの旅−東京帝国大学工科大学造家学科の学生・大学院生時代(1889〜93)の日記17冊。
書簡−伊東宛のものと伊東が親族や関係者に書いたものを合わせ、全部で1648通。
古写真−国内外のものが全部で3038枚。
その他−摺拓本、地図、スケッチ、書類、書簡など。

整理と保管の経緯
資料が整理、保管されるまでの経緯で特筆すべきは、故・伊東祐順氏と知恵子夫人の尽力だろう。伊東祐順氏は伊東忠太のご子息であり、中国建築などにも通じていたことから、大切に保管された資料を分類し、詳細な目録を作成された。逝去の後、知恵子夫人が日本建築学会への寄贈を決意され、1997年に筆者を含む「伊東忠太未公開資料特別研究委員会」が学会内に発足した。もし、伊東祐順氏の分類と目録がなかったら、われわれは資料の山を前に途方に暮れていただろう。作成者を良く知る人物が資料に深く関わる必要を思わざるをえない。
2000年に資料が正式に寄贈された後、「伊東忠太資料整備小委員会」が新たに立ち上がり、博物館の勤務経験のある山口俊浩氏を中心に、保存状況の改善や貸出し・閲覧規則の制定が進められた。現在では申請を受け、資料の劣化状態等を鑑みながら、一定の条件を定めて一般への資料の閲覧や貸出しを行なっている。
2003年には「拡張するアーカイブ 伊東忠太展」が日本建築学会建築博物館で開かれた。また、2003〜4年には「伊東忠太の世界展」がワタリウム美術館、KPOキリンプラザ大阪、伊東の生地である山形県米沢市の上杉博物館の3館に巡回した。多くの関係者の貢献の上に立って、今、伊東の業績が新たに読み解かれ始めている。
誰でも簡単に海を渡れる。しがらみから離れて意見を交換できる。そんな時代になって、ようやく解決できることもあるのかもしれない。住まいや暮らしに関心がある方々に、もっと利用していただきたい伊東忠太資料である。

倉方 俊輔(くらかた・しゅんすけ)
(「すまいろん」07年冬号転載)