この人、この一冊 4
高山栄華編『高蔵寺ニュータウン計画』

はじめに
高山英華はこの本の「編者」であり「著者」ではない。原稿はわずかに2頁の「まえがき」を寄せているだけ、計画の指導をおこなったのは確かだが、それも策定途中までで、最終的な局面には関与していない。高山自身、晩年の幾つかのインタビューにおいて、高蔵寺については積極的に言及していない。つまり、『高蔵寺ニュータウン計画』は、書籍としても計画としても、高山の主要な業績としていいものなのかどうか、怪しい。しかし、こうした「業績の分かりづらさ」こそ、高山英華という人物の特徴であり、都市の計画、設計という仕事の特徴でもある。その分かりづらさを丁寧に解きほぐしていくと、本書が高山にとっても、わが国の都市計画や都市設計の発展史にとっても重要な意味を持っていたことが見えてくる。

『高蔵寺ニュータウン計画』とは何か?
1961年6月に東京大学高山研究室に高蔵寺ニュータウンの計画策定が委託されたとき、わが国で最初のニュータウンである千里ニュータウンの建設が、大阪府による全面買収という方式ですでに始まっていた。高山研も千里ニュータウンの計画策定の終盤にブラッシュアップを請け負った経験があった。しかし、高蔵寺ニュータウン計画は、住宅公団が初めて手がける土地区画整理事業による大規模住宅地開発事業であり、高山研にとっても、最初期段階からかかわる初めてのニュータウン計画であった。公団にも高山研にも蓄積されたノウハウがあるわけではなかったが、両者は、千里ニュータウンに対する「近隣住区論に拘り過ぎた結果、都市的な魅力を欠いた、巨大な団地群に留まってしまった」という批判的見解を共有していた。
高蔵寺ニュータウン計画は、千里ニュータウンに対する反省の上に立ち、都市的賑わいを創出するために、ニュータウンの中にただ一つの中心地区を設定するワンセンター方式、コミュニティのまとまりよりもコミュニティ間の物理的、心理的な往来を可能にするオープンコミュニティという考え方を基本とした。そしてそれを具現化すべく、中心地区のペデストリアンデッキと周辺に伸びる歩行者専用道が構想されたのである。
その立案体制は単純な外部委託ではなかった。高山を指導役にして、30代半ばの津端修一をチーフとする公団内の若手部隊と、津端より2歳年下の川上秀光に率いられた高山研の大学院生たちがひとつのチームとして協同作業をおこなった。本書の執筆者は、公団の若林時郎、土肥博至、小林篤夫(高山研研究生から公団に就職)、高山研の土田旭、大村虔一(けんいち)というこの実働部隊の面々である。
公団の従来の事業では、大学などに委託された基本計画は参考資料程度で、実施計画段階で容易に変更されるパイロットプランに過ぎなかった。しかし、このチームは実施計画に移行する段階においてもマスタープランを根拠にかかわり続け、マスタープランの役割が事業全体の企画・調整的機能にあるという新たな認識を促したのである。
本書の出版は、高蔵寺ニュータウンで入居が始まる半年前であった。高山は編集の狙いを、「マスタープランの展開を中心に追跡し、マスタープラン・チームがその作業をとおして積み重ねていった未来の都市生活と建設の像、それを阻む未知の問題と現実の障害、その解決のため研究グループと各種の会議、それらの結果をとりこんで進められる設計の方法を展望しようと試みた」と書いた。『高蔵寺ニュータウン計画』は、その書名のとおり事業史ではなく新たな計画設計手法を提起する書であった。

総括と起点としての高蔵寺ニュータウン計画
高山の研究者としてのキャリアは意外と知られていない。
高山の20代の主な業績は、諸外国の雑誌から住宅地の計画図を切り抜き、整理した「外国における住宅敷地割類例集」であった。高山は住宅地の部分的取扱いではなく、集団的住宅地全体の計画研究を志向し、さらに田園都市、衛星都市などの都市計画的観念のもとでの合理的、大局的解決が必要だと主張した。そして、建築学会の委員会を通じて、住区構成(近隣住区論)の研究を進めた。
1940年代、30代になった高山は、戦時体制下の東京改造計画の研究を経て、都市計画の方法、技術の確立に強い関心を寄せるようになった。人口密度計画と土地利用計画という二つのアプローチ、都市の分析構成技術としての「密度・配置・動き」の観点など、都市計画技術確立の方向性を予見、構想するようになった。
1950年代、40代になった高山は、日本都市計画学会の設立、東大での都市計画講座の充実に力を注ぎ、容積制に関する基礎的な研究を進めつつ、東京都住宅供給公社の祖師谷住宅など、幾つかの団地の設計にも携わった。
そして、1960年代、50代になり脂の乗った高山のもとに、岡山市都市再開発マスタープラン、八郎潟干拓新農村計画、東京オリンピック施設配置計画などの仕事が次々と持ち込まれるようになった。高蔵寺ニュータウン計画もそうした仕事のひとつであったが、それは20代の頃から温めていた都市計画観念のもとでの集団住宅地全体の計画、30代の頃に取り組んだ確立すべき都市計画技術を実践的に展開する場であり、40代に手をかけた団地設計を発展させる場であった。つまり、高山の研究者人生を一旦、総括するような仕事であった。

若者たちの都市計画家としての飛躍
しかし、高山は監督役に徹し、公団と自分の研究室の若手に具体の作業は全て任せた。結果として出来上がってきたマスタープランは、中京圏での位置付けに始まり、土地利用計画と人口配分計画(密度)、それを交通計画(動き)と施設配置計画(配置)他が支える、つまり高山の構想した都市計画技術を適用したものであったが、あくまで若手チームの作品であった。高山の仕事は、彼らに「計画が出発してから数年、行政者でも研究者でもない、そして建築家でも技術者でもない、計画者という立場、都市計画家という職業を確立するひとつのきっかけがここにできた」と実感させることであった。
高蔵寺ニュータウン計画は、若手チームにとってはその後の仕事の起点となった。本書の出版の半年後、土肥、若林、土田は連名で「ニュータウンの反省」という論説を発表し、今度は高蔵寺を含むニュータウン全てに対し、それらを「都市」と呼ぶことは到底できない、「都市」たらしめる個性、多様性を欠いているという批判を展開した。彼らは日中の仕事が終わった後、地区設計研究会と称して共同の作業場に集まり、ニュータウンの限界を乗り越えるべく、次の仕事、筑波研究学園都市計画に取り組み始めた。その後、土肥、若林は筑波研究学園都市の建設に尽力し、ともに新設の筑波大学のプロフェッサー・プランナーとして幅広い活動を展開する。土田は地区設計研究会に集まった自分より少し若い他の仲間たちと都市環境研究所を設立し、我が国を代表する民間都市計画家として活躍していく。もうひとりの著者、大村は、高蔵寺ニュータウン計画で実務を学んだ後、高山に依頼が来た千里ニュータウンのセンター計画の仕事を引き受けるかたちで、ひと足早く、同級生たちと都市計画設計研究所を設立し、独立していた。高蔵寺ニュータウンに集まった若者たちは、その後も「都市」を真撃に探求し、さまざまな都市プロジェクトを通じ、都市計画家像を確立していくのである。
『高蔵寺ニュータウン計画』は、当時50代の高山と、20代から30代の若者たちとの間のバトン受け渡しの現場の記録でもあった。本書は、人づくり、人育ての名手であった高山ならではの「この一冊」に違いないのである。

中島 直人(なかじま・なおと)
(「すまいろん」10年秋号転載)