この人、この一冊 3
佐野利器の『住宅論』

佐野利器との出会い
たとえば「佐野先生」というには、面識もなく、ましてや自分が生まれる約20年も前に亡くなられた人物であることからも具合が悪い。かといって敬称を付けないのも不遜な気がする。そんな偉人・佐野利器のことを私が知ったのは、恥ずかしながら建築学科に所属した学生時代ではなく、ハウスメーカーに就職して数年後のこと。もう10年ほど前になる。
きっかけは、木造住宅メーカーが作り出す「木造住宅」が、大学教育でのそれと大きく異なることへの違和感からだった。住宅の外観をみても、軽量鉄骨造なのか在来木造なのかサッパリわからない。柱も梁も垂木も全て覆い隠し、木造らしさを消し去るに至った住宅近代化の流れをさかのぼり、違和感の原因を探る。その過程で内田祥三や田辺平学らによる住宅・都市不燃化の動きを知り、そして佐野利器へと辿りついた。佐野は、東京帝国大学在学中、辰野金吾が「日本には欧米と異なる困った事がある。地震が之である」と講義で語ったのをきっかけに、「耐震構造で国家社会に尽くそう」と決意した人物である。辰野が建築の「見た目」を欧化して国家社会に尽くした偉人とすれば、佐野は建築学の「骨組み」や「考え方」の科学化に尽力した人物ともいえる。耐震構造学の確立だけでなく、都市計画や住宅改良、さらにはメートル法やローマ字の啓蒙運動など、多方面で活躍した生涯には圧倒される。

「構造アカデミズム」の権化?
「存在を無視しては日本の近代建築史が語れない」(村松貞治郎)と評される佐野利器。耐震構造学の創始とともに、よく言及されるのは、「形のよし悪しとか色彩の事等は婦女子のする事」といった発言。さらには「日本の建築家は主として須く科学を基本とせる技術家であるべき」といった建築非芸術論である。そのことで、佐野は日本建築界の工学偏重を招いたと指弾され、「構造派」あるいは「構造アカデミズム」の権化として語られもする。
私の「木造住宅」に対する違和感は、日本の建築近代化・科学化が招いた、ある意味「成果」だったと納得した。しかしその後、佐野のあまりにパワフルな生涯について調べたり、さらには、彼自身の著書や発言を丹念にみていくことで、ことはそう単純ではないことがわかってきた。
例えば「婦女子」発言も、『佐野博士追想録』を子細に眺めると少し話が違ってくる。それは建築学に科学的理論がないことに失望した佐野が、その理由を説明するくだりにあらわれる。「小さい時から質実剛健というモットーに育てられ、形のよし悪しとか色彩の事等は婦女子のする事で、男子の口にすべきことではないと思い込んでいた位だからだ」と語り、「もっとも2年の半ば頃から段々と形、色彩にも興味を持つようになり、卒業頃は芸術の人生に大切な事をさとるようになった」と続く。建築非芸術論にしても、当時の日本が「正に臥薪嘗胆の時機」だという時代認識を、明治末期にひとりドイツに留学して痛感した佐野が、気合いを込めて「建築家の覚悟」(1911)を語ったのであって、根本的に芸術や趣味の問題を全否定したわけではなかろう。佐野は「構造合理主義」というレッテルを知ったら、どう思うのだろう。

『住宅論』の子どもへの眼差し
さて、前置きが長くなったが、佐野の著書『住宅論』を「この一冊」に採り上げたい。この本は、森本厚吉や有島武郎、吉野作造らが主となり活動していた文化生活研究会から1925年に出版された。科学的に生活を改善し、「文化生活」の推進を啓蒙することが会の趣旨であり、佐野は建築学者として「住宅論」を通信教育用テキストとしてまとめた。これを単行本化したのが本書である。
目次構成をみると、緒論において住宅の意義や欧米の住宅事情を紹介した後、敷地論、経営、住宅計画論、構造論、住居衛生論、住居保安論について論述する内容となっている。欧米でのアパートメントの事例を紹介し、鉄筋コンクリート造を推奨したり、火災や震災への配慮を力説したりしている。また家相についても、その科学的理論の無さを徹底攻撃するなど佐野利器らしさが全面に押し出されている。「構造派・佐野」という色眼鏡で見ていた10年前の私はそう思った。しかし、最近、改めて内容を読み進んでみると、いささかチャーミングな佐野の側面が見えてきた。
たとえば敷地論の章で、佐野は敷地選定のために考えるべきポイントを掲げている。「近所に危険物はないか」、「近所に衛生上有害なものはないか」、「排水がよいか」といった一般的な注意喚起が続くなか、最後の項目に「遠くない所に遊園地があるか」が唐突にあらわれる。「公園その他子供の遊び場が余り遠くない所にあるということは誠に望ましきことである」と熱弁する。
さらに住宅計画論の章では「主要各室」と別に「児童室」の節を設けている。ここで「我が人生観乃至生活観にして誤りなくんば即我が住宅は正に子供の住宅でなければならぬ」、そして「子供を育てるということは我々の生活の中心であらねばならぬ」、「住宅を以て子供のものである」などなど、子どもへの温かな眼差しをもった住宅論が展開されている。

愛とユーモアの人、佐野利器
こうした住宅論は、近親者らが語る「子煩悩」な佐野利器についての思い出話を知ると、より深く味わうことができる。佐野の合理主義が形をなしたとされる鉄筋コンクリート造の自邸も、実は「子どもたちがグルグル回って遊べるように」つくられたものであったそうだ。週末には孫たちと一緒に「自転車部隊」を繰り出しもしたという。学生からは恐れられた佐野も、近親者にとっては愛情あふれる人物であったことがわかる。
そういえば、佐野は『住宅論』のなかで人生の本義を「己れもよく生き、人もよく生かすことの努力、即ち我と人とを近くより遠きに及ぼし現在より未来に及ぼして最もよく生活せしめる」ことと定義した。子ども重視の姿勢がここから導出されるのは言うまでもない。
佐野は建築学会誌への投稿に「遅飛(ちび)」というペンネームを使っている。これは自身の身長が低いことに因んでいるそうだ。「としかた」を「りき」と読み、時には「Ricky」と署名もしたらしい。また、浪花節も愛好したという。合理主義で割り切れない「佐野利器」像を、こうした愛やユーモアを手がかりに再構築できるのでは、と思ったりもする。
佐野の存在を無視しては日本近代建築史を語れないとされながらも、没後半世紀を過ぎた今、「この人物のことを建築界でも知る人はまれだろう」(藤森照信)とも指摘される。このまま佐野は「構造派を唱導した建築学の偉人」として丁重に忘却されるのだろうか。鉄骨造か木造かわからない木造住宅を生み出した犯人探しから始まった私の佐野利器との出会いは、愛とユーモアの観点から「構造派」を再読する作業へと展開しはじめた。単純化された「佐野利器」像を改めて複雑化するため、佐野の言葉に思いを巡らす時機にある。『住宅論』はそんな私に折々の顔を見せてくれる。

竹内 孝治(たけうち・こうじ)
(「すまいろん」10年夏号転載)