この人、この一冊 2
吉阪隆正 『吉阪隆正集I 住居の発見』

書籍が紡ぎ出す「時代」
私事で恐縮だが、先般「建築家の読書術」という連続講演会の総括をおこなった。そこで改めて書籍というメディアが持つ、息の長い効用を実感させられた。
TOTO出版の20周年を記念して、東京・乃木坂の「ギャラリー・間」で開かれた連続講演会は、5人の建築家(平田晃久、藤本壮介、吉村靖孝、中山英之、中村拓志)が、それぞれ影響を受けた20冊の本を選び、それについて語るというものだった。建築家たちも、こうした機会は初めてだったろう。最初は戸惑っていたようだったが、面白いのは自作について語るよりも、書籍を選び、それを語るほうが、むしろ各々の建築思想が明確化されることだった。
加えて、興味深かったことがある。それは書籍選択の同時性だ。5人の建築家と筆者の生まれ年は、1971年から74年の狭い範囲に固まっている。同時代の新刊書については、選択が似ることは予想できる。しかし、それだけでなく、過去の本の選び方、とりわけ直接に建築を扱っているのではない書物の選択や解釈にも共通性がみられたのは発見だった。
たとえば、生物の環世界や視覚的遊戯への関心、「ポストモダン」あるいは「ニューアカデミズム」と総括されてしまったものに対する今までの一般論とは異なる解釈といったものが、それである。それぞれはバラバラな時代に記され、異なったジャンルに位置づけられていた書籍が、現在の眼からすればひとつの思想的連関として捉えることができる。誰が誰の真似をしたわけでもない。各人は自分だけの発見だと思っていたものが、今になって一致をみていたことに気づくのである。
当然のことながら、現在の思考は、今になって突然に現れたものではない。時代的変化の単純な反映であったり、独創的個人によるゼロからの産物ではないのだ。とはいえ、それは既往の思考の自動的な継続でもアンチテーゼでもないだろう。「現在」の地点に立ってみれば、それはあたかも、遠い過去の互いに異なる場所から出た傍流が次第に集まり、やがて大河となって、現在の思考を形成しているように見える。もちろん、少し時代・世代をずらして事態を観察すれば、過去の地層は別の脈流を形成し、その時代の「現在」をつくっているように観察されるに違いない。
書籍も時代も、歴史学者が仮に整理するようには、AからBへと毅然として転じるわけではない。それと同時に、それぞれの書籍が個別に唯一正統の読みを内在させているわけでもなければ、各個人が時代と無関係に自由な読みができるわけでも、事実上は無い。現在は現在によってのみ作られているのではないが、その総体は紛れもなく現在と呼べるものを構成している。そうした新しさを担えるのは、書籍の鈍重さである。ひとつのパッケージとして投げ出された書籍は当時は予想できなかった(もちろん著者が予想すべくもない)、後世の必然によって結び合わされ、時代の最新を構成する一部となる。そして、その河の流れは時代時代で更新されていく。書物自体は一向に個人的でも、時代的でもないメディアだが、それが「時代」と「個人」に、そう呼んで良い心棒を与えるのである。

吉阪思想の原点
さて、連続講演会を聞きながら考えていたのは、吉阪隆正のことだった。筆者は吉阪隆正に会ったことがない。私が触れることができるのは、彼の作品と、言葉と、彼を知っている人たちの言葉である。そのどれもが異なる角度から、この建築家を照らし出してくれる。その上で強く現在に、おそらくは未来にもつながっているものが、吉阪隆正の言葉だと考える。
彼の言葉に触れるには、1980年の没後に編まれた労作『吉阪隆正集』全18巻(勁草書房、1984〜86)がある。中でも1冊ということであれば、第1巻の『住居の発見』を挙げる。
同書には3つの文章が収められている。頭巻だけあって、最も早い時期の吉阪の著述がまとめられている。「北支蒙彊に於ける住居の地理学的考察」(1940)と「自然環境と住居の形態」(1942)と「住居学汎論」(1950)である。1950年に渡仏し、ル・コルビュジエのアトリエに赴く以前の吉阪の思考が読み取れる。終戦をはさんだ時期の執筆である。他の巻と併せて読めば、それが彼の生涯の基調をなしていることが分かる。完成していない瑞々しさは、かえって吉阪を、彼以前の今では見えづらくなってしまった脈流などとも接続し、現在までを見通そうとした時に恰好なのである。
たとえば、最初の「北支蒙彊に於ける住居の地理学的考察」だが、これは1940年7月21日〜9月12日の中国北部・内モンゴル調査に基づいて同年10月31日に書き上げられ、大学卒業論文として提出された。特に吉阪の建築思想の原型が見られるのは、序論の部分だ。吉阪は地理学的立場からの新たな総合を目標に掲げながらも、自らの「建築家の立場」を強調している。
では「建築家」とは何か。そこで引用されているのは「人間は世界から作られ、作られたものであり乍ら独立なものとして逆に世界を作つてゆく」という三木清の『哲学入門』(1940)の言葉である。「更に自分の作った世界に再び作られてゆくという事もいわれるのではあるまいか」と続け、「建築家の仕事といえば、その諸法則を求め、知って、それによって建築を計画し、建設して行くにある」と記す。

住居から都市へ
こうした諸法則として、後に吉阪が追及するのが、1940年代の「住居学」であり、50年代の「不連続統一体」であり、60年代の「有形学」だった。法則(理論)と創造(実践)が別物であることを前提に、前者を後者に適用し、人間と環境の往還関係に介入することが目されている。「住居―都市」をつくる「建築家の立場」は、卒業論文以降、どれほど理論的にみえる論考の場合でも自覚されている。そうした態度には昭和初期の地理学や技術論の隆盛が共鳴している。
続く「自然環境と住居の形態」(1942)などを経て、戦後に吉阪は「住居学汎論」(1950)を著す。これは日本女子大学家政学部通信講座の教科書としてまとめられた「住居学概論」(1949)を下敷きに、その主張がより明確になっている。一見すると網羅的な叙述の中から、次のような住居観、都市観を窺うことができる。
ひとつめは住居と都市を一体で考察しなければならないという意識である。時代と共に生活の空間が住居から分離していく傾向にあるため、現在では「完全な住居」であるためには「完全な都市」でなければならないとする。こうした「住居―都市」の思想は戦後の建築界の思潮に沿ったものといえる。ただし、吉阪の場合、都市から住居を捉えるのではなく、住居を考察することが必然的に都市を要求するとして、住居から都市的視点を捉える。研究の出発点に「住居学」があるがゆえのこうした特質は、本書によって整理され、以後の活動の揺るぎない軸となる。
ふたつめは空間を認識するのに感覚的・知性的・観念的の3種の方法があるとし、住居の本質が空間であるとしながらも、「空間」に心理的で可変的な意味を持たせることである。これにひとつめの特徴を併せると、以上のような住居の空間性は、「生活圏」の概念を通じて、都市にまで延長することになる。こうして建築は「住居―都市」として捉えられ、その本質である「空間」は均質性だけでなく、個別的な不均質な性格を与えられるのである。
三つめは精神面も含んだ自己の延長として「物」を捉え、その代表が住居だとする視点である。「住居学汎論」は冒頭で「生命なき物品も亦自分自身と見られる」とし、「私達の生活はこうして、大量の品々と結びついて、はじめて個人としての生活も保たれている」と言う。このような考え方に立てば、住居は生活を容れるハコであるだけでなく、自己の延長である「物」としても配慮されなくてはならないことになる。こうした考えは吉阪の都市論にもつながっていく。

倉方 俊輔(くらかた・しゅんすけ)
(「すまいろん」10年春号転載)