この人、この一冊 1
吉武泰水先生の本を読み返して

建築計画学の創成
吉武泰水先生といえば建築計画学の創成者と言われる。建築計画学は1955年に提出された先生の学位論文によりその礎がつくられたと考えてよい。
この論文は1949年〜55年の研究成果をまとめたもので、『建築計画の研究』副題「建物の使われ方に関する建築計画的研究」として1964年、鹿島出版会から出版されている。この論文をわかり易く紹介したのが『建築計画学ノート(上・下)』(1960年、彰国社)である。先生の最初の講義でこの本に接し、一気に読んだことを覚えている。建築が、個人の恣意ではなく、地味な調査に裏付けられていることを知ったのである。建築のあり方を創造しようとする熱気を、建築を志す学生にはこの本から汲みとって欲しい。そして、生活に根ざした建築とは何かを考えてもらいたい。
以後、各地の大学に講座が設けられ、建築計画学はあっという間に確立される。この間の事情に関しては左記の2著に詳しい。特に後者は、宮内嘉久氏の偏見に耐えながら、成立の事情を吉武先生自身が率直に語っている。

  • 『建築計画学の足跡−東京大学建築計画研究室1942〜1988年』(鈴木成文教授退官記念出版)
  • 『建築計画学の創生』吉武泰水(1999年、(株)建築会館発行)

建築計画学の見直し
1967年にコロナ社から『建築計画概論(上)地域施設計画原論』が出て、千里・高蔵寺・多摩ニュータウン計画を背景に、地域施設の計画に関する研究を発表している。はしがきで「地域諸施設について、施設を使うひとびとの立場から、どのような性格、どのような規模の施設を、どのように組み合わせて、どのように配置するのかの問題で、とくにそれらの数量的関係をとらえることに重点を置いている」と述べているように、建築計画学は個別の建物の使われ方を研究することだけを目指しているのではなく、地域のなかにどういう施設が必要で、その量・規模・分布や施設の体系等をどうすべきかという、地域の生活のあり方を計画することである、と強調している。この思いは「付章2・建築計画研究から設計へのアプローチ」では次のように記されている。
「今日の計画の研究は、使われ方の現象の正確なはあくから出発し、仮説の設定・検証の繰り返しによって進められるが、設計に対する提案まで飛躍することはあえて避けようとするところに、この研究の限界があるように思われる。設計においてすべての研究成果は統合され、行きつくところは一つの建築空間にほかならないそのような、総合という設計過程をテーマとする研究はまだ開発されていないが、総合された結果としての建築空間に対する研究は、設計に迫る研究といってよいではあるまいか。ここで、建築空間と生活要求との全体的対応を問題にする場合、心理学的方法がかなり有力な手がかりとなるであろう。しかし結論をいうならば、研究と設計とはあたかも技術と技能のように次元を異にするものである。研究は設計のための全課程を埋めつくそうと務めるが、設計はその間に研究成果を吸収して前より高度なものに進展しているであろう。(傍線筆者)
この文章の中に先生のその後のあゆみが示唆されているように思えてならない。
1. 建築計画学の進み方に対する懐疑と新たに個性的な研究を始められたこと
2. 「高次のデザイン」「総合的設計」の学問として、芸術工学に取り組まれたこと
この2点である。

建築計画学の進み方への疑問と新たな研究の展開
1977年に、丸善から刊行されていた施設別の『建築計画学』全12巻が完成するが、その年の1月に東京大学で最終講義代わりにおこなった特別講義「建築計画学の生立ちと展開」が、1987年鹿島出版会刊行の『建築計画学への試み』第1部に掲載されている。この中で「施設の地域的計画を行うにあたって普通は既存の施設の体系、例えば学校でいえば小学校・中学校・幼稚園・保育所(中略)そういうものの存在を前提として計画している。しかし(中略)新しい都市や大住宅団地等ではそういうものを新しい体系に組み替えることが可能でかつ望ましい場合もありうる」し、「千里・高蔵寺・多摩・筑波研究学園都市等大きな住宅団地の計画に際してはその都度それぞれの地域に応じた施設体系を考えている」とし、地域施設の体系や施設の運営システムを既存の枠をとり払って「地域の全体的なかかわりあいの中で計画する」ことの重要性を指摘している。
この特別講義では温和に指摘していた建築計画学の現状に対する批判は、同書の2部でより鋭く展開される。例えば学校建築について「この30余年学校が良くなってきているのかといえば、必ずしもそうであるとはいい切れない」とし、「進展がみられない理由は、主に日本の社会や教育の体質に根ざす複雑な問題なので、ここでは結論的な打開の方向のみを述べるならば、これまでのように学校を教育の行われる場として教育の側から学校を考えるという筋道をとらずに、学校をわれわれが地域環境の中でもちつづけてきた最も重要な施設として見直し、その方向につくっていくことになるのではないかと思われる。言葉はあまり適切ではないが、教育主導的なアプローチではなく環境あるいは施設主導的なアプローチをとるということである」とし、「『施設としての学校』を『制度としての学校』から分けてとらえ、計画・設計にあたってはこちらのほうからアプローチしよう」と提言している。
この第2部の「いくつかの小論」では生活の基盤としての地域(場所)を重視し、地域における生活を包括的に捉えた上でどういう施設が必要かを、原点に返って提言することが建築計画学の根幹であり、建物の使われ方を調べることだけが建築計画学では決してないという先生の思いが率直に語られている。先生は学位論文で建物の使われ方に関する研究と言ったのを後悔されていたのではないかとさえ思われる。
第3部には建築学会九州支部で発表され、関係者を驚かせた題目が掲載されている。

  • ソルジェニーツィンの「ガン病棟」
  • 夢における場
  • 中国の住宅形式「四合院」
  • ナイチンゲールの「病院覚え書」

これらは建築空間と生活要求の全体的な対応を考慮するための手法として、心理学的な方法が有力な手がかりとなると考えた結果である。先生はこの本の第2部において地域社会のしくみの本質を追究し、生活空間のあり方を積極的に提言したのに対し、第3部では人間そのものの本質を理解することで建築計画学をより深いレベルに導こうとされた。このうち夢に関する研究はより深い考察が1997年『夢の場所・夢の建築』として工作舎から出版された。その中で「場所の記憶は、動物の生命の深層に塗り込められた最初の記憶といっていいだろう。『場所にかかわる記憶がよく保存される』のは人間の本能なのだ」と、場所と人間の心理との関係性を探り、計画学の新たな可能性を示唆されている。

設計の学としての芸術工学への取り組み
さらに計画学をいっそう深めようとすれば、計画と設計の関係や、設計とは何かという根元的な命題に突き当たる。「総合という設計過程をテーマとする研究はまだ開発されていない」という認識で、先生は相当早い時点から設計そのものの本質を問うことを始めており、芸術工学の基礎としての「総合的設計」という考えを深めていくことで、設計とは何かを明らかにするとともに、「『計画』は全人的活動である『総合的設計』の部分であり『芸術工学』のおもな内容をなす」と位置づけている(『建築設計計画研究拾遺I』2004年、吉武先生を偲ぶ会)。
こうしてみると先生は、建築計画学の創成者であるにもかかわらず、そこに踏み留まることなく早い時期から新たな展開を模索し、より広い視野に立って計画とは、設計とは、を追い続けていたことがわかる。読み直した結果がこんな形になったことに当惑しつつも、先生の深い思いの込められたこれらの本は設計(デザイン)に携わるということの意味を改めて考えさせてくれる。

水野 統夫(みずの・ただお)
(「すまいろん」10年冬号転載)