第81回
(話題)  葬式のフォークロア
(要旨)
1994年2月17日の朝日新聞に、市民運動「葬送の自由をすすめる会」が公式に散骨(91年)を行い法務省も“節度をもつ限り違法ではない”としてから、散骨による葬送儀礼を求める声が高まり、このたび東京の葬儀社がビジネスとして取り入れたと報じられた。英国では火葬の中60%程度は墓標もなく散骨に類する葬法であり、米国西海岸地区では海に撒く葬送儀礼が認められている。日本でも散骨を葬儀としてよいとする意見が多い(60%)が、日本人の葬法として定着するかどうか、民族文化の死に対する基本的考え方が問われるところである。
“死”についての考え方は、臓器移植のさまざまな意見とも関係する。火葬で灰になる(日本人の98%)のだから遺体そのものの提供に反対するのはおかしい、との意見(少数外国人)があるにも拘わらず、大抵抗があるのは何故であろうか。それはエンバーミングの葬法をもつ文化、つまり積極的に内臓など遺体保存処理をした後に土葬・火葬にする文化との違いが根底にあろう。腐敗を避ける現実的面もあったろうが、日本では“霊魂”との関係で“骨・骨格”を重視し“骨上げ”をすることが成仏する方法なのである。土葬から火葬に変化しても骨格を残し、座棺の遺体のように骨の下部から骨上げし最後に喉仏の骨をのせ、骨壷に納めるのであり、骨は霊魂の依代(よりしろ)なのである。喉仏に霊魂を感じ霊が骨に従って転生・再生するスピリチュアルなものを重視する日本と物質的な“物”を重視する西欧との相違があろう。たとえば、欧米ではゾンビが物語りのテーマとなっているが日本には無い。ゾンビは死の観念が異なり臓器移植を肯定するようなエンバーミングの文化から生まれたといえる。
最も古い日本の葬式はモガリ(殯)である。イザナギ・イザナミの黄泉(よみ)の国の説話は遺体の腐敗状況を指すものであろうし、天稚彦(あまのわかひこ)の遺体は高天(たかま)が原に喪屋が造られモガリの式が行われたとある(日本書紀)。天稚彦のモガリには川雁(かわがり)・雀などが登場するが、これは鳥の扮装をしてモガリの一役を担ったものであろう。また弔問した高彦根神(たかひこねのかみ)が生前の天稚彦と酷似しているのを見て親族妻子が“死なないでおられた”と喜ぶ光景がある。これには葬儀の基本的意味が含まれており、八日八夜歌い・舞い・飲食し、死者にそっくりな者が現れ再生することで最高潮に達するのである。これが現在の通夜に通じている。
野辺送りは高張提灯・白い着物・編み笠のいでたちで、送り終わって四九餅を食べる。提灯や白色の着衣など葬の正装にはそれぞれ象徴的な意味があり、四九餅は人体に似せた等身大の餅をちぎって食べる“死者との食い別れ”の儀礼が元である。四九は土葬で白骨化する日数に相当し、餅は骨の象徴であろう。暗殺された竹中組組長の骨上げの新聞報道に“骨をしゃぶって復讐を誓う”とあったが、或いはここに繋がっているのかも知れない。
そもそも、野辺送りの済まぬ前は死んだとは考えられず、野辺送りをして初めて死が発生するのであり、野辺送りの前日を死日としたのでは死のケガレから逃れられないことになる。また、夜の爪切りを禁じ、葬列の出会いには親指を隠すという風習があるが、民族によっては親指を切断し一緒に埋葬する儀礼がある。これは“爪の間から霊魂が引かれる”という霊的なものを感じたものであろう。日本には断指の風習は無いが、孝徳天皇の薄葬令(大化薄葬令・大化2年(646)・日本書紀)では断髪したり股を刺したりすることを禁じており、その代替としてか故意に欠損させた土偶などの考古学上の出土品もある。
葬式儀礼の簡素化は薄葬令がしばしば発せられるなどで変容していき、持統天皇が飛鳥岡に火葬され(大宝2年(702)天皇火葬の初例となった(続日本紀))。さらに淳和天皇は遺言により骨を砕いて粉とし大原野西山嶺上に散骨の葬法で送られている(承和7年(840)・続日本後紀)。これは、精魂帰天(しょうこんてんにかえり)、而空存冢墓(しこうしてくうちょうぼにそんす)の儒教思想に基づくものであったろうが、まさに散骨の初めといえる。
簡素化は明治時代から多くの人により提唱されており、野辺送りは大正時代から密葬、告別式とわかれ、通夜も半通夜が普通となり、正装も黒の東京風が地方に伝播していった。告別式のための近代的霊園が生まれ、葬儀は共同体(野辺送り)から個人的なもの(告別式)に変わっていく。大正から昭和初期にかけて個人葬がふえ、大正9年102例のうち野辺送りの葬列が2例、50例は葬列なし、全体の1/3が告別式(うち27例が自宅)であったが、13年には葬列は0、告別式が全体の80%、場所は寺院28、葬儀場18とする調査記録もある。もっとも葬列は交通手段の普及から不可能となったし、火葬場は郊外に移って遺体は遠く運ばれざるを得ず会葬者が減ったという因もあり、近親だけで密葬を行ってから告別式を社会的なものとして行うようになった訳である。いずれにしても葬儀は非日常的儀礼であり、禁欲的ではあるが賑わいをもって死者を送り出し、ケガレを除き、共同体を元に戻すことが基本にあり、骨の重視が死の腐敗感を軽減し、かつそれが合理化に結び付いている、といえる。
神葬と仏葬と自葬(水戸藩の例)、大喪の礼と神葬・仏葬、魂(たま)呼ばいと四九日、淳和天皇の散骨と思想的背景とその普及度、即身仏(ミイラ)と死の関係、日本人の遺骨への執着と両墓制、戦国時代の葬式と実態、庶民の葬式儀礼とキリスト教布教の影響、ネパールの葬式とイギリスの散骨、西欧の骸骨寺・聖物崇拝と日本の骨仏、西欧における都市・墓地の関係と日本の都市・墓地の変遷および都市計画、その他。