第79回
(話題)  谷中墓地をめぐって
(要旨)
山の手台地の東端に位置する「谷中(屋中とも)」の地名は、古くは戦国期の役帳に小田原北條氏の家臣・遠山弥九郎の所領として「三九貫文 江戸 屋中」と見え、上野と駒込・本郷の中間の谷であることに由来すると言われているが、江戸時代には上野の山や付近の台地を含むかなり広い範囲が谷中と呼ばれていた。初めは幕府領、のち東叡山寛永寺の寺領となり、元禄頃までには「谷中本村(現在荒川区)」という集落が形成され、慶安年間(1394)以降江戸中期にかけて村内に多くの寺院が起立されて門前町ができるなど町場化が進み、俗に谷中八丁に九八カ寺と言われるようになった。その中心をなしたのが感応寺(のちの天王寺)であった。
長耀山感応寺尊重院は、谷中村の武士・関小次郎長耀宅に日蓮が寄宿した奇縁から始まったとされているが、元禄12年(1699)将軍綱吉の命で日蓮宗から天台宗へ改宗させられ、天保4年(1833)には護国山天王寺と改名されている。長耀はのち道灌坊と号し感応寺北側の道灌山に住んだと伝えられる。
現在の谷中墓地の殆どを寺域としていた天王寺は、富籤(湯島天神・目黒不動と並ぶ三富の一つ)の勧進元としても有名で、将軍家の菩提寺である厳かな上野寛永寺にたいして庶民的な親しみやすい場所でもあった。特に高台に立つ34.12mの五重塔は、墓参者や日暮里・根津・千駄木など谷中に住む人々のランドマークであったばかりでなく、江戸4塔(寛永寺・増上寺・浅草寺・天王寺)の中でも富籤の天王寺の塔として、「江戸のシンボル」になっていた。その門前には茶屋町(いろは茶屋)などの岡場所も発達して遊び客で賑わい、笠森お仙の水茶屋・鍵屋もあり江戸名所の一つであった。
五重塔は寛永21年(1644)創建、明和9年(1772)焼失、寛政3年(1791)に再建された白木作りで、慶応4年(1864)の彰義隊の戦いでも庫裡とともに奇跡的に残った(その他は全焼)「谷中自慢」であった。明治41年には東京市へ寄付されたが、関東大震災や大戦時の空襲にも罹災を免れ、江戸情緒を味わえる谷中の風景の核であった。
明治7年(1874)、政府は天王寺と寛永寺より上地させて、敷地3万坪の谷中共同墓地を設置し、現在では青山・染井・雑司ケ谷と並ぶ都心の公共墓地となっている。概略ヒョウタン横町を境にして西の甲区が天王寺、東の乙区が寛永寺の上地とみてよく、甲区は整然と区画されており、乙区はより古い墓碑が大小混じり込んでいる状態である。墓園にはリスが遊び、野鳥が飛び交い、貴重な植物の群生も見られ、昆虫も“ィヤな蚊”ともじられるほど居り、多くの自然が残っている場である。また、少なくはなったが、墓地開発に尽力し、寺や墓参の人を対象に商ってきた老舗花重をはじめ、畳屋・石屋などが現在も営業している。
ここには明治以降の日本を作ってきた有名無名の人々が眠っており、文人・芸人・舞踊家などの墓碑や神葬による鳥居の立つ墓も多い。キリスト教による墓もあり、ニコライ司教の葬儀でニコライ堂から谷中まで続いた葬列は今も語り種になっている。その数約6500基、財団と関係深い清水釘吉も葬られている。詳しくは、郷土の偉人の墓を尋ねる人々などの対応に手薄な都公園係を補うべく「谷中墓地掃苔録」を作成・続刊中なので参照されたい。改葬が多くて“掃苔の興は……吾等が子孫の世に及びては、之を知らんとするも亦知るべからざるものとはなりぬべし”の永井荷風の言のようになりかねない。
幸田露伴の名作のモデルになった五重塔は、昭和32年(1957)放火心中により姿を消し今は礎石が残るのみだが、墓園は上野公園と並ぶ桜の名所として庶民に親しまれている。墓の苔を払いその人の人生に思いをはせ冥福を祈ると共に、鉄道により分断されて変わったものの、浅倉文雄が住まい荷風が散歩した坂の多い谷中の町に江戸のなごりを尋ねるのも一興であろう。
都心墓地の移転と森林公園化計画、鬼門にあたる寺町と怨霊、産土神の根津権現を丑寅方位に祀った理由と伝説、明治政府の神葬政策と谷中墓地、江戸時代の天王寺墓地の範囲と名所図絵、お化け・人魂・幽霊と谷中、仏教と霊魂の管理と戸籍管理、鉄道路線の選定と周辺状況、墓石の発生と普及、「花重」と「おもだか屋」、沢田正二郎の家紋の墓碑と悉皆調査の必要性など。