2018実践研究報告集NO.1724
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「まちでつくるビル」というプロジェクトは、中心商店街の東柳ヶ瀬での5階建ての空きビルを大家の協力も得て、借り手参加型の改修を行い、シェアアトリエとした事例である。スペースの一画では月1回「おとな大学」というサロン的な活動も行っており、岐阜市の街なかの新たな拠点となりつつある。以上、調査事例以外にも伝統的建造物群保存地区を有する郡上八幡地区や、美濃市、恵那市岩村地区などでも、歴史的な建物を活用したショップ、ゲストハウス等が、地域住民の力で生まれている。これらを通して地域では空き家活用ブームがきており、様々な活用事例や実施体制にも、多様な方法、仕組みがあることがわかった。実践2.岐阜市での住宅の保存運動の取り組み-笠井邸空き家の利用、使用価値を目に見えるかたちで提示する実践とは、都市の住宅地で見えなくなった住まいでの暮らしの楽しさを再発見することでもある。その視点から、岐阜市である住宅の保存活用に取り組むことになった。近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトに師事した建築家、遠藤楽氏が設計し、戦後1950年代に建てられた住宅「笠井邸」は、岐阜市長柄にあり、緑豊かな広い敷地に、のびやかな水平線を強調した屋根がとても印象的な木造二階建ての建物である。この住宅が、存続の危機にあった。●設計者の遠藤楽氏と施主の笠井唯計氏旧帝国ホテルの設計・監理をフランク・ロイド・ライトから任された遠藤新氏の息子であり、親子2代にわたってライトに師事した建築家である。そのクライアントの笠井唯計(かさいただかず)氏は、岐阜県山県郡山県村(現岐阜市)の生まれで、満州のハルビン学院で「命のビザ」で知られる杉原千畝氏の後輩にあたり、卒業後、満州国外交部に勤務し外交官として活躍した。「同じ頃、ベルリンの満州国公使館にいた岐阜市出身の笠井唯計は占領から逃れて亡命する複数のポーランド将校に満州国の国籍を与え、パスポートを発行したと生前に証言している。・・・カナウスのホテルで千畝とホテルで面会したというメモも残している。注2)」とあるように、杉原千畝氏とも共通する思いをもって、激動の時代を外交官として生きた方である。現所有者である笠井唯計氏の長男は、東京在住で、建物の維持管理が難しく解体して処分をするしか方法がないのではないかと考えていた。そんな中、建物の処分を依頼された岐阜市のさくら不動産の臼井さんが、なんとか存続できないだろうかと考え、知り合いの建築家である多田直人さんに2018年3月、声をかけ、友人である筆者の柳田に連絡をくれ、少しずつであるが関心のある人達に声をかけながら、存続への道を探し始めることが始まった。■活動●4月12日(火)第1回見学会4人のメンバー、上記の臼井、多田、柳田の他、杉原千畝氏に関し新たな取材を行っていた岐阜新聞の堀さんが集まった。この4人がその後もコアメンバーとして活動を行っていくことになったが、それぞれの専門から情報交換しながら、建物の価値を改めて検証することをスタートさせた。建物の概要は、敷地が260坪、延床面積56.65坪、一部2階建て、外壁は1階がリシンのかき落とし、2階は縦羽目板張り。堀さんの笠井唯計氏の三男氏へのヒヤリングによると、遠藤新氏は戦前、満州国の首都新京(現在の長春)に拠点を置いて仕事をしており、1934年に満州中央銀行総裁邸、1935年に満州中央銀行倶楽部を設計している。当時満州にいた笠井唯計氏と接点が生まれたようで、戦後、岐阜にもどった笠井氏は自宅の設計を遠藤新氏に依頼しようと考える。しかし新氏はすでに1951年に亡くなっており、代わって息子の楽氏が仕事を受け、1953~54年に住宅を完成させた。1927年生まれの遠藤楽氏はまだ20代半ば、1957年に渡米しライトのタリアセンで修行する前の時代の貴重な作品である。しかし、居間には旧帝国ホテルで使われた大谷石による暖炉風の石組みが据えられ、建築家の多田直人さんが「あえて玄関の天井を低くして、続く居間で開放感を出している。なだらかな階段とスキップフロアの組み合わせなど、構成にライトの雰囲気が出ている」と解説するように、ライトの建築要素が埋め込まれていることが十分に見て取れる作品である。笠井唯計氏は戦後新たに始めた事業が順調で、広い敷地を購入し建物の予算も制限せず建てたそうだ。唯計氏は亡くなるまではこの住宅に住んでいたが、その後は夫人が住われていて、居間や台所には東京の息子の家から送られた写真が飾られていた。数年前より空き家になっていたが、東京在住の現所有者が年何回は所用で岐阜に滞在する時に利用していた。写真2-2笠井邸居間写真2-1笠井邸外観

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